2017年03月05日

「森友学園事件」にまつわる3つの疑問:その結末はいかに?

今や世間の最大の関心事となった感がある「森友学園事件」。安倍首相嫌いの私としては、メディアの皆さんや野党の方々にはこの際トコトンいじめてほしいと思うのだが、そんな個人的な感情を抜きにしても、これは捨て置いてはいけない事件、徹底的に真相を解明してもらいたい事件だと思う。その理由を私なりにまとめてみた。


@ 国有地が不当な廉価で売却されたこと

近畿財務局が、大阪府豊中市の国有地(評価額9億5,600万円)を、学校法人「森友学園」に1億3,400万円で売却した。8億円以上もが減額された理由として国交省は「地中のごみの撤去費用として8億2,000万円を差し引いた」と説明している。

こういう場合、撤去費用の見積もりは専門業者が行うのが一般的だそうだが、今回はなぜか近畿財務局の依頼で大阪航空局が見積もった。国家機関が直接見積もるのは前例がなく、「前例がないとテコでも動かない」中央官庁にしては異常事態である。

しかも財務省は、この売買を巡る学園側と近畿財務局との交渉記録を、「2016年6月の売買契約成立後に破棄した」と報告した。これにも納得がいかない。


「これは森友学園に安値で売るように、外部からの働きかけあるいは圧力があったに違いない。そしてその証拠隠滅のために記録を破棄したんだろう。」一般常識的に考えれば、誰もがこう思うだろう。


A 森友学園の前時代的な教育方針

この「不当廉価」で手に入れた土地に、森友学園は小学校を新設するという。しかしメディアが明らかにした森友学園の教育内容は、誰もが唖然とするものだった。


学園が運営する幼稚園では、園児に「教育勅語」を暗唱させている。この教育勅語は、「基本的人権を損ない、国際信義に対して疑いを残す」として、1948年の衆参両院で排除と失効確認が決議された。こんなシロモノを幼児に暗唱させるなど時代錯誤も甚だしく、教育方針に根本的な欠陥があると言わざるを得ない。

また運動会の選手宣誓で、「安倍首相がんばれ。安保法制、国会通過よかったです」と唱えさせる。これは教育の政治的中立を求めている教育基本法を逸脱しているし、何よりまだ政治を理解できない幼児にこんなことを唱えさせるのは、「洗脳」以外の何物でもない。政権にすり寄る教育機関、これは非常に危険な香りがする。

さらに「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」という差別表現のある文書を保護者に配り、大阪府の事情聴取を受けていたことも明らかになった。ここにも教育機関にあるまじき偏った思想が見える。

こんな「前時代の遺物」に小学校設立の認可を与えていいのかと思っていたら、さすがに大阪府は認可判断を先送りするという。これで予定していた4月開校は困難になったようだが、これで済まされる問題ではない。そもそもこんな極端な「右寄り」の教育機関の存在が許されていいのか。その存在そのものが危険だと思うのだが。


こういう状況を見て、誰もが思うこと:「こんな危険な教育機関が存在し、一度は新たな学校の認可も受けたその最大の理由:それは森友学園が『安倍派』であり、安倍首相の政策を強く支持しているからだ。」これが一般常識的な考えだろう。


B 「安倍晋三記念小学校」「安倍昭恵名誉校長」

森友学園は一時期、「安倍晋三記念小学校」の名目で寄付を集めていた。また4月開校予定のこの小学校で、安倍首相の昭恵夫人が名誉校長に就任した。ところが「国有地の不当廉価売却」が騒ぎになったため、(たぶんあわてて)名誉校長を辞任した。

この事実関係を見て、誰もが思うこと:「首相夫婦がお揃いで森友学園と何らかの関係を持っていたんだな。」名前を冠して寄付金を集めたり、名誉職に就任したりと、こんな事実が明らかになってしまっては、どう強弁して関与を否定しても意味があるまい。「ネタは挙がってるんだよ!」というヤツだ。

2月17日の衆議院予算委員会での安倍首相の答弁:「(籠池理事長は)私の考えに共鳴している方」「妻から森友学園の先生の教育への熱意はすばらしいと聞いている」と、そのわずか1週間後(24日・同)の答弁:「(「安倍晋三記念小学校」の名義使用要請が)非常にしつこい。何度も断った」「この方(籠池理事長)は簡単に引き下がらない人」「教育者としてはいかがなものか」との間にはあまりにギャップがあり、呆れるほどに手のひらを返しているのに唖然とする。だが、この人の国会での詭弁は今に始まったことではないのでさほど驚かないし、今後この人の答弁をいくら聞いてもさほどの意味はないだろう。


それより早く事実関係を明らかにし、学園や理事長と首相夫妻や議員、官僚との関りを明白にしてもらいたい。再度言うが、これは単なる権力者いじめではない。「国家財産が不当に処分され、それが政権寄りの極端な思想を持つ教育機関に安売りされ、しかもそれに首相夫妻が絡んでいるかもしれない。」これは国家運営の根幹にかかわる重大事なのだ。徹底的な全容解明を望む。

posted by デュークNave at 04:23| Comment(0) | 政治・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

フェデラー、18度目のグランドスラムタイトル:その「美しきテニス」の復活に、ただ感嘆 〜全豪オープン2017・男子シングルス〜

【 「神が創造した芸術品」の完全復活:その美しさに触れた心地よさ 】

全豪オープンの試合を連日観戦していて、私は不思議な心地よさに包まれていた。最初はその原因がよくわからなかったのだが、男子シングルスの準々決勝を観終わった時に気がついた。ほぼ半年のブランクを経て戦線に復帰したロジャー・フェデラー(スイス)の、柔らかい芸術的なプレーに魅せられるとともに、全盛期を彷彿とさせる美しきテニスの復活を目の当たりにした喜びの入り混じった、至高の心地よさだったのだ。「神が創造した芸術品」とまで称賛されるフェデラーの美しいプレースタイルが、この全豪で完全復活した。


【 第17シードからの快進撃:我らが錦織も飲み込まれる 】

膝の手術のために昨シーズンの後半を棒に振り、今大会は第17シード。しかしフェデラーは大会前、「低いシードからの復帰は楽しみ。心配すべきは早い段階で僕と戦う他の選手たちの方じゃないかな?」と余裕のコメントを残していた。その言葉通り、3回戦で第10シードのベルディヒ(チェコ)をストレートで破り、続く4回戦では、我らが錦織圭(第5シード)をフルセットの激闘の末に下す。第2シードのノバク・ジョコビッチが2回戦、第1シードのアンディ・マリーが4回戦でまさかの敗退を喫しており、グランドスラム初制覇を狙う錦織にとっては絶好のチャンスだった。それだけにベスト16での敗退は残念だが、「相手がフェデラーなら仕方がないか」とも思ったし、フェデラーのプレーにかつての輝きが戻ってきたことに、私は喜びを感じていた。


【 決勝の相手はナダル:復活したレジェンド同士のドリームマッチ 】

続く準々決勝ではマリーを下したM・ズベレフ(ドイツ)をストレートで破り、準決勝ではスタン・バブリンカ(第4シード)とのスイス勢対決をフルセットの末に制する。期待し注目はしていたものの、故障明けでほぼぶっつけ本番だったフェデラーがまさか決勝まで勝ち上がるとは、ファンはもとより本人も驚きだっただろう。

しかし、今大会のサプライズはこれにとどまらない。
もう一方のブロックから決勝に勝ち上がってきたのは、第9シードのラファエル・ナダル(スペイン)。
かつてはフェデラーとともに「ビッグ4」の一角に君臨してきたナダルだが、ここ数年は故障に悩まされ、グランドスラム大会でも不振が続いていた。しかし今大会ではそのスピンの利いたパワフルなショットが復活し、準々決勝では第3シードのミロシュ・ラオニッチ(カナダ)を何とストレートで屠り、準決勝ではグリゴール・ディミトロフ(ブルガリア)を約5時間の大激戦の末に退けた(この試合はすごかった!)。

フェデラーVSナダル。この長きにわたってテニス界の頂点に君臨してきたレジェンド同士の対決が、グランドスラム大会の決勝で再現するとは何とすばらしいことか。この顔合わせだけで、私を含めた長年のテニスファンは感涙にむせんでいたに違いない。そして試合も、全豪のみならずテニス史に永遠に刻まれる、観る者にテニスの醍醐味を堪能させてくれる、「これぞテニス!」と呼ぶにふさわしいすばらしい戦いになった。


【 第4セットから最終セット序盤、ナダルに流れが行きかけたが 】

フェデラーの2−1リードで迎えた第4セット。それまで正確だったフェデラーのストロークが乱れ始める。フォア・バックともにアンフォーストエラーが増え始め、特に長いストローク戦になると先にフェデラーがミスをするケースが増えてくる。フェデラーのラケット面を揺さぶり続けてきたナダルの強烈なスピンショットが、ここにきてボディーブローのように効いてきたのか。第4ゲームでフェデラーのサービスを破ったナダルが、そのまま押し切って6−3で第4セットを奪う。両雄の頂上決戦は、ついにファイナルセットにもつれこんだ。

その最終セットの第1ゲーム、ナダルはここでも強烈なショットを連発し、いきなりフェデラーのサービスを破る。この試合、先に相手のサービスをブレークした方がそのセットを取るという流れになっている。第4セットから目立ち始めたフェデラーのミスとナダルのストロークの伸び、そして最終セット出だしでのサービスブレーク。フェデラーファンの私は「これはナダルに流れが来ているな。ヤバいな」と思ったのだが・・・。


【 よみがえったフェデラーの「芸術品」 】

その後はサービスキープが続き、ナダルが3−2とリードを保つ。なかなか追いつけないフェデラーだったが、私は一筋の光明を見ていた。ナダルはブレークは許していないものの、第2ゲームで3つ、第4ゲームでも1つのブレークポイントを迎えており、かなりサービスキープに苦しんでいた。私は「この流れならブレークチャンスは十分にある。とにかく早くブレークすることだ」と念じていた。

そして迎えた第6ゲーム、ナダルのサービス。すばらしくスリリングなストロークの応酬の末、フェデラーがつかんだ2つ目のブレークポイント。ナダルの深いショットをフェデラーがライジングで返し続け、その速いテンポにナダルが押されてフォアがサイドアウト。ついにフェデラーがブレークに成功し、3−3のタイに持ち込む。続くサービスゲームをラブゲームでキープし、フェデラーが初めてこのセットでリードする。テンポの速いプレーが再び決まり始め、流れはフェデラーに傾きつつあった。

そして勝負の第8ゲーム。ナダルのダブルフォルトなどで、0−40とフェデラーが3ブレークポイントをつかむ。しかしこの絶体絶命のピンチを、ナダルはスピンの利いたサービスとパワフルなストロークで3ポイントを連取、デュースに持ち込む。だがここからもフェデラーはプレッシャーをかけ続け、連続でブレークポイントをつかむ(特にこのゲーム4つ目のブレークポイントをつかんだ時のラリーは、この試合最長の26。エース級のショットの応酬の末、フェデラーのフォアのダウンザラインが決まった。テニスのストローク戦の、まさに最高峰だった)。そしてこのゲーム5つ目のブレークポイント、フェデラーの角度のあるバックのリターンをナダルが返し切れずにネット。フェデラーがナダルのサービスを連続で破り、4ゲーム連取で5−3とリードする。

第9ゲーム、フェデラーの”Serving for the Championship”。ネットに詰めるフェデラーの脇をナダルの鋭いパスが抜ける。次のポイントもストローク戦をナダルが制し、0−30。ノータッチエースでフェデラーがポイントを返すが、またもナダルのパワフルなショットがフェデラーを圧迫し、浅くなったロブをナダルがボレーで仕留めて15−40。ナダルが逆にブレークバックのチャンスをつかむ。しかしここでまたフェデラーのノータッチエースがセンターに決まり、次のポイントも速いストロークでウイナーを奪ってデュースに。そして迎えた2度目のChampionship point、フェデラーのフォアのクロスがサイドラインに決まる。ナダルはチャレンジを要求するが、しっかりラインに乗っていた。フェデラーが3時間38分の激闘を制し、全豪5度目の優勝、そして前人未到の18度目のグランドスラムタイトルをつかんだ。


【 多言を要しない、2人のレジェンドの「至高のテニス」 】

興奮のあまりずいぶん長々と書いてしまったが、こういう「絶品」はあまり言葉を要しない、いや多言してはいけないのだろう。「とにかく観ろ!」の一言だ。互いの技術と経験、そして精神力のすべてを注ぎ込んだ至高のテニス。「フェデラーはすばらしかった、しかしナダルもすばらしかった。」もうこれしか言えない。テニスのすばらしさの神髄を見せてもらった。2人のレジェンドが紡ぎ出したこの芸術品は、全豪史上、そしてテニス史上永遠に語り継がれるであろう、世紀の名勝負になった。今はただ、この両雄に「すばらしいものを見せてくれて、本当にありがとう」の言葉を贈るのみである。

posted by デュークNave at 05:50| Comment(0) | スポーツ-テニス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

予想外の急展開に驚き、そのあと落ち着いて心から祝福 〜稀勢の里悲願の初優勝、そして第72代横綱に昇進〜

1月10日の記事(http://keep-alive.seesaa.net/article/445759602.html?1485645130)で私は、大事な一番で勝てない錦織圭と稀勢の里に対し、「善戦マンから脱却してチャンピオンになれ!」と叱咤激励した。そうしたらその稀勢の里が初場所でついに念願の初優勝、さらに横綱昇進を決めた。本当はすごくうれしいはずなのに、展開が早すぎて、その後何日かは戸惑いの気持ちが消えなかった。ここ数日でようやく落ち着き、「第72代横綱・稀勢の里」の誕生を心から祝福している。

横綱審議委員会の横綱推薦の内規は、@品格・力量が抜群 A大関で連続優勝、またはそれに準ずる成績 と規定されている。稀勢の里の場合、土俵上の態度や振る舞いは十分品格があるし、昨年に年間最多勝を挙げたように力量も十分あるので、@はクリアしている。しかしAは、先場所(九州場所)は優勝次点の成績なので、連続優勝はしていない。となると「それに準ずる成績」に当てはまるかだが、過去の例で見ると、優勝+優勝同点(優勝決定戦で敗れる)または優勝次点というケースが多い。これで見ると稀勢の里は「準ずる成績」を挙げている。ただ先場所が12勝3敗という、優勝次点にしてはやや物足りない成績なのだが、それでも14日目に優勝が決まった時点で(つまり千秋楽の白鵬戦の結果が出る前に)、八角理事長は横綱審議委員会に稀勢の里の横綱昇進を諮ることを決めている。このすばやい動きの根拠になったのが、稀勢の里の直近6場所の高いレベルでの安定感である。

2016年春:13勝2敗   夏:13勝2敗   名古屋:12勝3敗
秋:10勝5敗   九州:12勝3敗  2017年初:14勝1敗(優勝)


勝率は8割2分2厘。これは現在の3横綱の昇進前6場所の勝率(日馬富士7割5分5厘・鶴竜7割3分3厘・白鵬6割5分5厘)を大きく上回っている。加えて、昨年は3横綱を抑えて年間最多勝を挙げている。横綱をも上回る高いレベルでの安定感を示している稀勢の里、相撲協会や横審にしてみれば、「あとは優勝するだけ」と、彼の優勝を手ぐすね引いて待っていたに違いない。そしてついについに実現した初優勝、その瞬間、まさに引き絞っていた矢が放たれたように、八角理事長は横審に諮問したのだ。横審にしてもまさに「諸手を挙げての推薦」だっただろう。

(千秋楽に白鵬に勝ったのは、単に「初優勝と横綱昇進に花を添えた」だけでなく、これまで「ここという一番で敗れ続けてきた大きな壁を破った」という意味でも、大きな白星だった

稀勢の里は毎日新聞への手記で、「目指すところにはまだ4割程度しか到達していない。自分は昔から体つきが5〜6歳若いから、今は30歳だが、25歳だと思っている。自分は早熟で晩成という珍しいタイプ」と記している。史上2番目のスピード出世で入幕しながら、大関と横綱で大きな壁にぶつかった稀勢の里。年齢的には遅咲きの横綱だが、本人の言う通り「今は25歳」なら、まったく遅咲きではない。むしろ最大の壁をついに破ったここから、彼の相撲人生の真骨頂が見られるのかもしれない。陰りが見える白鵬、成績が不安定な日馬富士と鶴竜。この先輩横綱たちを尻目に、ここから稀勢の里の「遅れてきた黄金時代」が花開くか。その抜群の安定感が今後も持続すれば、これは十分にあり得るだろう。

昨年急逝した元横綱・千代の富士は、25歳で横綱に昇進。その31回の優勝のうち19回が、30歳を超えてからの優勝である。当年30歳の稀勢の里、「今は25歳」「早熟で晩成」なら、この大横綱と同じぐらいの優勝回数を重ねてもまったく不思議ではない。私は真剣に、「稀勢の里の遅れてきた黄金時代」を期待し、かつ信じる。

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2017年01月20日

「ヒラリーだったらこんなことにはならなかった」 〜今すでに世界中で漏れている(であろう)、つぶやき、溜息〜

ドナルド・トランプ新アメリカ大統領が、アメリカ時間の今日誕生する。昨2016年の世界2大サプライズ、「イギリスEU離脱決定」と「傍若無人・暴言癖の男が、何と米大統領に!」の、一方の当事者である。

この人、選挙に当選して「次期米大統領」と呼ばれるようになるや否や、さっそく世界を騒がせてくれている。「TPPには参加しない」「オバマケアはやめる」あたりはまだ政治のことなのだが、最近のフォードやトヨタへの圧力「メキシコに工場を作るなら多額の関税をかけるぞ!」はモロに強引な企業経営者の顔であり、こんな露骨な経営干渉をした米大統領はかつていなかった。さらに記者会見では、自分に批判的なCNNの記者の質問を完全に無視し、「ウソニュースだ」と決めつけた。「助走段階」でこれだから、大統領に就任して「本番」になったら、いったい何を言い、何をやらかすのか、まったく予測がつかない。


アメリカのみならず、今世界中では、こんなつぶやきが漏れているかもしれない。「ヒラリーだったら、こんなことにはならなかった」まあヒラリーならずとも、他のどの候補者が当選しても、助走段階でも本番でもこんなことはやらかさないだろう。トランプ氏の支持者は、こういうよく言えば破天荒なところに、旧来の政治家にはない魅力を感じて彼を支持しているのだろうが、それにしても型破りが過ぎる。就任式には民主党の議員の60人近くが欠席すると表明しており、パレードに参加する市民の数も通常の半分ほどになるという。各地で多数の抗議デモも行われる予定だ。

「〇〇だったら、こんなことにはならなかった」。このつぶやき、以前も聞いたことがあるし、私自身もつぶやいたことがある。2001年、激戦の末米大統領に就任したジョージ・W・ブッシュ。就任1年目に同時多発テロが勃発し、「テロとの戦い」を標榜して当初は支持率も高かったが、他国を「悪の枢軸」呼ばわりしたり、大量破壊兵器保持の確かな根拠もなくイラク戦争を起こしたりと、世界のあちこちで紛争騒ぎを起こした。このヤンキー気質丸出しの好戦的な大統領のおかげで、世界中がえらく物騒になってしまった(映画監督のマイケル・ムーアは「おい、ブッシュ、世界を返せ!」を著したが、私もこのタイトルの言葉をそのままブッシュ大統領に突きつけたい気分だった)。

この時、私が思っていたこと:「アル・ゴアだったら、こんなことにはならなかっただろうな」大統領選でブッシュと大激戦を繰り広げたアル・ゴア副大統領(当時)。のちにアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞・歌曲賞を受賞した映画「不都合な真実」に主演し(書籍化されてベストセラーにもなった)、世界有数の環境保護論者として脚光を浴びた。こんな彼なら、ブッシュのように世界中に紛争の種をまき散らすようなことは絶対にしなかっただろう。れば・たらは無意味とわかっていての、むなしいつぶやき、いや溜息である。


さてトランプ新大統領、この先どれだけの溜息、嘆きを世界中に蔓延させることになるのか。何せ言うことややることに予測がつかないのが困る。普通なら「お手並み拝見」と静観するところだが、静観などしたらどんどんとんでもないことをやってくれそうだ。しかし無力なただの一市民である我々に、何もできようもない。せめて日本政府や中央官庁の皆さん、彼の暴走を何とかしてほしい。・・・でも無理だろうなあ、我が安倍首相はトランプ氏当選後、世界の誰よりも早く「トランプ詣で」しちゃったぐらいだから、この先も一生懸命トランプ氏にシッポを振るんだろうな。ともに「独裁的でやりたい放題」という共通点があるから、けっこうウマが合うんだろう。しかしこういうことでウマが合うのは、両国民にとっては非常に困るんだけどな・・・。

posted by デュークNave at 08:34| Comment(0) | 政治・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

「ビジネスエリートの新論語」  福田定一(司馬遼太郎)・著

こんな痛快な本は久しぶりに読んだ。駅のホームで、電車の中で、そして昼休み中、何度クスッと笑い、時にアハハと声を上げたことか。「あの司馬さんがこんな文章を書いていたなんて」。驚きとともに大いに笑い、そして感じ入った。

本書は、故・司馬遼太郎さんが産経新聞の記者時代、本名の「福田定一」名で昭和30年に刊行した「名言随筆サラリーマン ユーモア新論語」をベースにしている。読み始めてまず驚いたのは、その文章の軽妙洒脱さである。のちに「国盗り物語」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」といった壮大かつ重厚な歴史小説を著した人と同一人物とはとても思えない、やや毒舌を含んだ、フットワークの軽い文章。それでいて深い歴史知識や鋭い社会分析に基づいているので、その内容はズバリ本質を突いており、ズシリと重みがある。つまり「重厚なテーマを軽妙な文章で綴る」という高度な技法を駆使した名文であり、読者はクスクス笑いながら、テーマの本質がズンと重心に染み入ってくるのだ。


名文ぞろいの本書だが、その中から特に私が感じ入った箇所を、ごく一部だがここにご紹介しよう。30代前半の司馬さんのウィットをご堪能あれ。


≪ 人の一生は重き荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。

堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。勝つ事ばかりを知って負くる事を知らざれば、害その身に至る。

おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは、過ぎたるより優れり。    <徳川家康遺訓>



 どうやらこれでみると、よきサラリーマンとは、家康型であるらしい。そのまま過不足なくこれは完ぺきなサラリーマン訓である。
 戦国の三傑をみると、まず秀吉はサラリーマンにとってほとんど参考にすべき点がない。彼はいわば、身、貧より起しての立志美談型なのだ。(中略)
 信長が経た人生のスタイルも、サラリーマンには有縁なものではない。いわば彼は社長の御曹司なのだ。(中略)
 となると、家康である。(中略)下級サラリーマンの味こそ知らないが、それに似た体験をふんだんに持つ苦労人である。(中略)しかも天下の制覇ののちは、武士を戦士から事務官に本質転移させ三百年の太平を開いたいわばサラリーマンの生みの親みたいな人物だ。(中略)
まずはサラリーマンの英雄なら、家康あたりを奉っとくほうがご利益はあろう。≫


言われてみれば「なるほど」だが、戦国の三傑をサラリーマンと照らし合わせて考えるなど、なかなか思いつかない発想である。若き日の司馬さんの「ヤワラカ頭」ぶりがうかがえる。


≪たいていの会社の人事課長は「新入社員の情熱は永くて五年」とみている。それどころか「入社早々何の情熱も用意していない者が多い」(S肥料人事課長)「戦前なら、入社後二年というものは仕事を覚えるのに夢中ですごすものだが、近ごろの若い人は、ただ八時間という労働時間と初任給の多寡をにらみあわせただけの労働量しか提供しない」(K産業庶務課長)といった評すらある。(中略)
 国運の隆盛期のころのサラリーマンと現在のそれとには、著しい気質の相違があることはたしかなようだ。一般に仕事への情熱は、前時代にくらべて、悲しいが早老の気味がある。


近年の若者は保守的になっているというニュースをそちこちで目にも耳にもする(もっともこれは日本だけのことではないらしいが)。この現象は「失われた20年」を経た現代日本のことであり、これに対してかつての高度成長時代の若者たちは、希望に燃えてバリバリ働いていたんだろうと思っていた。ところが敗戦からわずか10年後に書かれたこのエッセイによると、すでにこのころから若いサラリーマンたちは「早老の気味」を見せていたというのだ。これは驚きだった。しかし戦後の日本があれだけの発展をしてきたということは、会社の上役たちがこの「早老の気味」の若手をひっぱたいて、無理やりにでも働かせてきたということか。思えば私も、かつてはけっこうひっぱたかれたなあ。


≪ 人生はいつまでも学校の討論会ではない。 <D. カーネギー>

 議論ずきというのは、サラリーマン稼業にとって一種の悪徳である。本人は知的体操でもやっているつもりかもしれないが、勝ったところで相手に劣敗感を与え、好意を失うのがせいぜいの収穫というものなのだ。
 まだしも話柄が火星ニ生物ガ棲息スルヤ、恋愛ハ結婚ヲ前提トスベキヤイナヤ、などと科学評論や人物評論をやっているあいだは可愛い。が、次第に議論に快感をおぼえて同僚や上役を俎上にのぼせ、大いに人物評論家としての才能を発揮したりするようになると事が面倒になる。
 カーネギーにいわせると、営業部員の論客ほどヤクザなものはないそうだ。


司馬さんの「竜馬がゆく」に、坂本龍馬も「議論は無意味だ」と考えていた旨の記述がある。理由は上記と同じで、議論で相手を一時やりこめても、相手は結局納得しないし、自分に対して恨みや不快感を抱くことになるからだ。会社の会議のような、1つの結論を出さねばならない時は議論もやむを得ないが、そうでない時は、議論ではなく意見交換にとどめるべきだろう。そうすれば自分にはない視点や考え方を知ることができ、自分の視野が広まるとともに、新たな仲間との交流も生まれる。「議論は対立や軋轢を生み、意見交換は広がりと交流を生む」。どちらがいいかは言うまでもないだろう。


知の巨人」と呼ばれた司馬遼太郎さん。30代の前半に著された本書には、その片鱗が早くもふんだんに表れている。すでに深遠な知の世界を構築していた司馬さんは、その後もその世界をさらに広く、高く、深く造り上げていった。司馬夫人・福田みどりさんがご主人の没後、「普通、人って歳を取るとものを考えなくなりますよね。考える気力もなくなる。司馬さんの場合逆なのね。だから魂がどんどん若くなっていったみたいと述懐されたが、この「魂がどんどん若くなる」原動力は、司馬さんの飽くなき知的貪欲さ、知的好奇心だったのだろう。


「知的貪欲さで魂がどんどん若くなる」これは私の理想の人生だ。とても司馬さんレベルにはなれないが、司馬さんを最高のメンターとして頭上に掲げ、生きていきたい。

posted by デュークNave at 14:53| Comment(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする