2013年02月02日

結婚しても日本女性は幸せじゃない? 〜ここにも残る「日本社会の後進性」〜

「結婚している人の方がしていない人より幸せだと思うか」。NHK放送文化研究所が16歳以上の男女1,600人を対象にした調査の結果が発表されたが(1,212人が回答・回答率67%)、これには「ウ〜ン」と首をひねってしまった。

Yes(そう思う・どちらかといえばそう思う)と回答した人は、男女合わせて28%。No(そう思わない・どちらかといえばそう思わない)と回答した人は、同じく29%と、ほぼ同数になった。しかし男女で分けると、男性はYesが35%であるのに対し、女性は23%と、男女で差がついた。さらに女性の中でも、独身者でYesと答えた人が26%に対し、既婚者は21%にとどまったのだ。

この結果をどう見るか。家族社会学が専門の日本女子大学の永井暁子准教授は、「男性の場合と違い、女性は仕事でも家事の負担でも結婚のメリットがない社会であることが、こうした結果につながっている。魅力的な家族生活を送れる社会の仕組みが出来上がっていない」と分析している。

全くご指摘の通りだろう。「男は外で働き、女は家庭を守る」(正確には、「男は外で忙しく働かされ、女は家庭をすべて押しつけられる」)。この日本社会の不文律は、いまだに根強く残っている。そして今回の調査結果は、女性の社会進出が盛んになり、さらには「失われた20年」によって、専業主婦だった女性たちがパートなどに出ざるを得なくなった今でも、この構造が変わっていないことの証明だ。つまり男は相変わらず、仕事が忙しいことを言い訳に女性に家庭のことをすべて押しつけ、女性は仕事と家事とに追われて結婚のメリットや幸福感を感じることができない、ということだ。

(既婚女性の方が独身女性よりもYesの答えが少ないとは・・・! 彼女らのため息が聞こえてきそうだ)


しかしこれを、「社会の仕組み」と片付けてしまうことには疑問だ。こう言ってしまうと、男どもは「日本はそういう国なんだから仕方がないよ」と開き直り、ますます仕事にかまけて家庭のことを奥さんに任せっ放しにしてしまうんじゃないか。

(それに「仕事にかまけて」といっても、アフターに仲間たちで飲みに行ってクダを巻くなんてことも、相変わらずけっこうやっているんじゃないか。こういうムダな時間の使い方が多いんだよ、ニッポンのサラリーマン諸兄は)

オランダ人ジャーナリスト・現アムステルダム大学教授のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、著書「人間を幸福にしない日本というシステム」の中で、この日本人がつぶやく「仕方がない」(=現状肯定=思考停止)が、日本の社会構造の変革がなかなか進まない元凶だと指摘している。

私が思うにこれは、社会構造というよりも、日本の男たちの意識の問題だと思う。社会で働く日本男性の大部分を占める「サラリーマン」は、今も昔も、その生き方のバランスが悪い。業界、会社、仕事、会社仲間とのつき合いに活動時間の大部分を奪われ(上に書いた「飲み会でクダを巻く」ような、自分で費やしてしまっている部分も多分にあるが)、仕事以外に創造的なことをやる余裕は、時間的にも精神的にもほとんどない。そして自分の周囲の人間がみなこういう状態だから、これがいかに異常なことなのかに気がつく人間はほとんどいないのだ。こういう、「会社と仕事にほとんどを奪われている、バランスの悪い社会人」を毎年大量生産しているのが、近現代の日本社会の現状なのだ。まさに「人間を幸福にしない日本というシステム」だ。

しかしこれを社会構造のせいにしていては、いつまでたっても事態は好転しない。まずは個々人が意識を変えて、会社以外に自分のライフスペースを作って生活や人生の幅を広げ、バランスのいい生き方を志向することだ。そしてその一環として家庭を顧み、家族との時間を大切にし、家事にも積極的に参加する。何より、もっと奥さんをパートナーとして尊重すべきだ。男たちがこの意識変革をしない限り、女性たちの幸福感はなかなか高まることはないだろう。

私はこれまで紆余曲折の多い「根無し草人生」を送ってきたが、唯一よかったと思うことは、「会社に身も心も売り渡した人生」にはならなかったことだ。自分以外のものに魂を奪われることなく、「自分」を保つことができた。これだけは胸を張って言える。


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2011年06月10日

ガタイがデカいとなかなか変われないんだなあ

先日NHKの「英語でしゃべらナイト」を観ていて、英語とは直接関係ないんですが、ちょっと気になったことがありました。

その回の主人公は、日本のある大手化粧品メーカーの海外事業担当者・Y氏。このメーカーの売上の90%は国内ですが、国内市場の成熟と、他業種からの新規参入で競争が激化してきたことに鑑み、2001年からアジアへの進出を始め、今ではタイ、シンガポール、香港など7カ国・地域に拠点を設けています。

今回はその7つの拠点から現地の責任者・担当者を日本の本社に呼び(すべて女性)、アジアでの販売戦略についてのミーティングを行いました。

ところがその席上では、Y氏の期待していたような活発な意見交換が行われません。本社の人間が「何か意見はありませんか?」と聞いても、彼女らは沈黙してしまいます。

Y氏は「この会議の雰囲気が彼女らの自由な発言を妨げている」と感じ、彼女らと直接話し合う場を設けることを上司に具申します。上司はOKしますが、予定外の会議なので、許された時間はMAXわずか30分。さて、Y氏は彼女たちから現場の本音の意見を聞きだすことができるのか?(もちろん英語で)・・・これがこの回の見どころでした。

そしてこの会議では、彼女らは先の会議とは見違えるほど活発な意見を述べ、Y氏はかなりの満足感を得ることができました。

ただ、私には一つ気になったことがありました。それは、この場で彼女らが口々に言っていた「もっと現地のニーズに合わせた商品作りやキャンペーンを行ってほしい」という要望です。

この会社がアジアに進出したのは2001年。もう10年も前のことです。にもかかわらず、このような要望が現地の担当者からいまだに上がってくるということは、この10年間は現地のニーズに合わせていなかった、つまり日本と同じ商品とキャンペーンを現地でも行っていた、ということになります。

これはまったくおかしな話ですね。海外に進出するなら、まずは事前にその国や地域の事情を調査し、どういう商品が売れるのか、その国ごとの販売戦略を立てるのが当たり前でしょう。この会社は業界でも指折りの大手なのに、こんなごく基本的なこともやらずに海外に進出していたとは。ちょっと驚きですね。

これは日本人のアジアに対する優越感がいまだに根強く残っている証なのでしょうか。「日本流の押しつけ」で思い出すのは、太平洋戦争の開戦当初、占領した東南アジアの国々に対する政策として、人民に日本語を教え、学校で「荒城の月」を歌わせるなど、日本社会や文化の押しつけを行ったことです。これと同じようなことを、日本の大企業が21世紀になっても行っているという事実に、ため息が出てしまいます。

弘兼憲史さんの「島耕作」シリーズの課長時代に、こんなエピソードがあります。フィリピン・ハツシバで島の秘書をしていたローラ・フェリシアーノという有能な女性社員が、フィリピンで洗濯機を製造・販売するにあたってこう意見を述べます。

フィリピン人には洗濯は『手でするもの』という意識がいまだに強く、日本のような全自動洗濯機にはなじまないでしょう。ですから洗濯機は、洗濯だけのシンプルな機能に限定して、その分価格を下げればいいと思います。

この現地の人たちの性質やニーズにマッチした「ローラの洗濯機」は爆発的に売れ、製造が注文に追いつかない売れ行きになったのです。

この話はもちろんフィクションですが、説得力はあります。「郷に入れば郷に従え」の格言はビジネスの世界にも生きています。一口に「化粧」といっても、お国柄でずいぶん違うでしょう。化粧に対する意識や価値観も違うでしょうし、経済事情(化粧にどれだけお金をかけられるか)も違うでしょう。それに何より、日本とアジア各国では、女性の肌の質が違うはずです。

Y氏の化粧品メーカーさんも、売り上げを上げたいと真剣に考えるなら、もっと現地の声を吸い上げて(というより、自ら現地に出向いてリサーチするぐらいの姿勢が必要だと思いますが)、現地の人々の性質やニーズを把握し、それにマッチした製品を提供すべきでしょう。

ガタイがデカい企業ほど、その体質を改善するのは難しいでしょうが、自ら方針を転換してアジアに打って出たんですから、それに合わせて体質もより柔軟に変革しなければならないでしょう。さもないと、激化する競争に敗れて沈んでしまいますよ・・・!

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2011年03月22日

時に海を見よ 〜立教新座高校・渡辺憲司校長の卒業生へのメッセージ〜


今日は、私のマイミクの某氏がmixiの日記に載せていた、立教新座高校の渡辺憲司校長の卒業生へのメッセージを転載してお届けします。

(そのまま転載というのはちょっと安易ですが、素晴らしいメッセージなのでぜひご一読下さい)

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卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。


 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」と題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。


 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

 「今日ひとりで海を見てきたよ。」

 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。


 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。


 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


 一言付言する。

 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。


立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司


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もう、コメントするのもおこがましいような、珠玉の言葉がたくさんきらめいています。

「大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。」

「青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。」

今回の大震災の惨状を踏まえ、その中で無事に卒業して大学に進学できることが、世界を見渡せばいかに恵まれているかを示し、これから手にする「煌きの時」を、周囲に流されて浪費することなく、時に孤独に沈殿し、自己を直視して未来を見据えよと説く。

「きらめく自由な時間」を目の前にした卒業生たちにとって、これほど胸に沁みる「きらめく言葉」はないでしょう。渡辺校長の高邁な人格と、これまでの人生経験の深さを感じさせるこのメッセージ。「すばらしい!」の一言ですね。

posted by デュークNave at 07:30| Comment(0) | 世の中全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

ライフラインが絶たれる恐怖 〜M9.0、国内観測史上最大となった東北地方・太平洋沖地震〜

3月11日(金)、午後3時ごろだっただろうか。部屋にいた私は突然、大きな揺れに襲われた。「地震大国日本」だから、軽く揺れることは珍しくなく、さほど驚くことでもない。しかし、今回の揺れは尋常ではなかった。テレビの上に載せている高校野球観戦の記念ボールや、中原名人・米長名人揮毫の彫り駒などがボロボロ落ち、テレビやその台もずれ、机の上の本も大きく揺れた。しかもこの大きな揺れが、かなり長い時間続いた。

大きな揺れが始まってから数分で、電気が止まった。パソコンはバッテリー電源でまだ画面は見れたが、ネットがつながらなくなり、無用の長物になってしまった。テレビもネットも見れなくなり、ラジオも持っていないので、まったくの情報遮断状態になった。震源地はどこなのか、どれほどの規模の地震なのか、他の地域はどんな状況になっているのか、何もわからない。

しかもその間にも、断続的に余震が続く。最初の大きな揺れからしばらくして(30分ぐらいだったか?)、同じぐらいの大揺れがまたやってきた。テレビの上のものがまた全部落ち、本棚の本も大きく揺れた。その後も余震は収まらず、部屋のガラス戸がそのたびに音を立てる。断続的に揺れ続ける状態が、最初の揺れから数時間も続いた。

そうしているうちに、外がだんだん暗くなってきた。本を読むぐらいしかできることがないのに、その本も読みづらくなってきた。LED懐中電灯を持ってきて、部屋の蛍光灯のヒモに結びつけて上から照らし、どうにか灯りを作った。

幸いにガスは使えたので、お湯は沸かすことができた。夕食は、たまたまストックしてあったパックライス「麦ご飯」を15分かけてお湯でゆで(電子レンジなら2分なのに)、缶詰を2つ開け、玄米茶を入れて、LEDの乏しい灯りの下でわびしく食べた。食べ終わっても何もできることはなかったので、7時ごろに布団にもぐりこんだ。普通ならとても眠れる時間ではないのだが、疲れていたのか、しばらくしたら眠ってしまった。しかしその間にも余震は続き、ガラス戸は鳴り続けた。

突然明かりが点いたのは何時ごろだっただろうか。点いたのには気がついたが、起きずにそのまま横になっていた。それからしばらくして、枕元に置いていた携帯が鳴り、「緊急地震速報」を伝えた。時間を見ると3時。しかし枕元からはかなり明るい光が差し込んでおり、「こんなに明るくて3時なはずがあるか。地震で携帯の時計も狂っちまったのか?」と思いながら、ようやく布団から起き出した。

居間に行くと、窓の外は真っ暗だった。やはりまだ3時だった。枕元が明るかったのは、寝ている間に復旧したキッチンの蛍光灯が照らしていたからだった。私はすぐにテレビをつけ、パソコンの電源を入れた。

NHKが伝えるニュースは、すさまじい映像を次々に映し出した。畑やビニールハウスを飲み込む大泥流。海岸線から大きく流れ込んだ津波の跡。各地で発生している大規模火災。軒並み倒壊した住宅地。しかも今朝になっても、長野などでM6レベルの余震が続いて発生している。

ネットをチェックすると、マイミクたちがツイッターでたくさんメッセージを流していた。「電車が止まってしまって、5時間かけて帰宅した」「娘と連絡が取れずに心配したが、やっと無事が確認できた」「今日は会社に泊まりです」などなど。どうやらケガをした人はおらず、みんな無事のようだ。一安心。

それにしても停電している間は、生活そのものが不便だったし、情報もまったく得られず、まったくの「浦島太郎状態」。それでも命は永らえ、ケガもしなかったのが幸いだった。

私は大学受験で一浪して仙台にいたころ、「宮城県沖地震」を体験した(M7.4・死者28名・負傷者1万名・建物の全半壊7,400戸・停電70万戸・断水7,000戸)。あの時も、床が抜けるかと思うほど激しく揺れた。停電し、ガスも止まったために下宿の夕食が出ず、同じ下宿の浪人生たちと近所の乾物屋に行き、缶詰や魚肉ソーセージや菓子パンなどを買い込み、皆で私の部屋に集まって、ローソクの灯を照らしながらわびしい夕食を取った。昨夜の「LED懐中電灯の下での夕食」で、久しぶりにこの時のことを思い出した。

NHKは一日中このニュースを流し続けるだろう。そして、これから被害状況が次々に明らかになってくるだろう。恐ろしい・・・!

posted by デュークNave at 07:56| Comment(0) | 世の中全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月23日

ニーズがあるからそうしてるんだろうけど・・・でもなあ

「11月に入るともうショッピングセンターにはクリスマスツリーが飾られ、街にはクリスマスソングが流れる」世の中がこうなったのはいつごろからだったでしょうか。

妻の誕生日が11月中旬なので、私は毎年11月半ばになると、デパートにグリーティングカードを買いに行きます。ところが、カードコーナーのラックを見てびっくり。5つあるラックのうち3つが、すでにクリスマスカードで埋め尽くされているのです。

まだ本番まで1ヶ月以上もあるのに、もうこれです。「こんなに早くクリスマスカードを買う客がいるのかよ」と私はあきれ返りました。顧客の購買動向を綿密に調べ上げた上で品揃えをするのが現代ビジネスの鉄則ですが、この「あまりにも早いクリスマスカードの陳列」は、顧客ニーズに応えるものなのか、それとも単なる「売る側の煽り」なのか、よくわかりません。

でもいずれにせよ、思ってしまいます。

「でもなあ・・・、やっぱり早すぎるんじゃないか?」

あくまで私見ですが、今の世の中には、「ニーズがあるからそうしてるんだろうけど・・・でもなあ」と思わされることがけっこうあります。

その典型がテレビのバラエティ番組。私など、画面を見た瞬間に「あ、ダメだ」と反射的にチャンネルを変えるか、テレビのスイッチを切ってしまいます。私にとってあれは「毒」以外の何物でもないんですが、いまだに各局で続いているということは、あれを熱心に観ている視聴者がいるということでしょう。

スポーツ番組の「絶叫型の実況アナウンサー」もかなりウザいですね。本当にスポーツの好きな人にとっては、ああいう実況は「騒音」でしかありません。この傾向はますますひどくなっているんですが、これが続いているということは、それなりに世の中に受け入れられているということなんでしょうか。

民放がよくやる「スポーツ番組に関係ないタレントを呼んできてコメントさせる」これも相当に邪魔くさいですね。プロ野球のペナントレースぐらいならまだ我慢できますが、国際試合などの大きなゲームではホントにやめてほしい。世界最高の技を味わっている時にド素人のコメントを聞かされるのは、頭から泥水をブッかけられるようなものです!

(・・・でもやめないっていうことは、あれを楽しんでいる人が少なからずいるっていうことでしょうか。抗議の声をはっきりと伝えないと、いつまでもああいうバカを続けるつもりなのかな)

一時は一世を風靡した写真週刊誌。かなり数は減ってしまいましたが、まだ2つほど存続しています。これに「スキャンダルの老舗」の女性週刊誌を加え、スキャンダル雑誌はいまだに存続しています。これも熱心な読者がいるからでしょう。

最近の流行歌も、ようわからんですね。テンポがやたら速いし、キーもすごく高い。それに一番問題だと思うのが、アーティストの歌詞の発音が明瞭でないことです。英語の歌詞がやたら混じっていることもあるでしょうけど、日本語の発音からしてよくわからなくて、テレビ画面に字幕スーパーがないと聞き取れないことがしばしばです。

「そりゃあオッサンにはわからんだろう」と言われればそれまでですが、少なくとも「この歌、歌えるようになりたいな」と思うようなものはほとんどないですね。

かつての「おニャン子クラブ」、最近の「モーニング娘。」や「AKB48」などの大人数グループも、あれだけ多いとようわかりません。彼女らのファンは、グループ全体を応援しているのか、それともその中の誰かを追っかけているのか。いずれにせよ、どうしてこういう大人数の内に個が埋没しそうなグループが結成され、また流行るのか、私には理解できません。

・・・と、ズラズラ並べてみましたが、でも正直、私個人にとってはさほどの問題ではありません。「見たくないものは見なきゃいいし、触れたくないものには触らなきゃいい」からです。コトは単純明快です。

(ズラズラ並べ立てたのは、単にちょっとグチってみただけです 笑)

「アホな世の中を横目で見ながら、オレはオレのやりたいようにやる」周りを気にせず、自分の感性にマッチするものだけを見て、触れて、愛する。これが「自分の人生を生きる」極意でしょう。

(ただ、実際はそう簡単にはいかないんですけどね。でも、だから人生は面白いともいえる)


posted by デュークNave at 07:27| Comment(0) | 世の中全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする