【 歴史にじかに触れることで味わった、大いなる感動 】
社会人になってからも、多忙な仕事の合間でも歴史を楽しむことは続けた。忘れられないのは、社会人1年目に、週末を利用して奈良に旅行に行った時だ。東大寺の大仏を見たあと、興福寺を訪ねた。「そうか、ここには阿修羅像があるんだよな」と思い出し、見に行った。阿修羅像は、「学習漫画 日本の歴史」の古代編の冒頭に大きなカラー写真が載っていたし、中学や高校の歴史教科書でも何度か見ていて知っていた。
ところが、ガラスのケースに入った実物の阿修羅像の前に立ったとたん、私は全身が硬直してしまい、目は像にくぎ付けになった。祈りを捧げる真摯な表情に引き寄せられ、しばし呆然と立ち尽くした。何とも言えない感情が私を包んでいた。
これが、本物、究極の美に触れた時に味わう大いなる感動なのだ。写真では何度も見ていたのだが、じかに本物を見て受けたインパクトは、写真とは比べ物にならない強烈なものだった。歴史的な建造物や観光名所を、テレビやネット動画で見ただけで行った気になっている人が多いと聞くが、やはり実物を見るのとでは全然違う。私はこの阿修羅像での体験から、これを確信している。
それから10数年後、これと同じことがまた起こった。弟と仙台に行った時のこと。少し足を延ばして白石城を訪ね、そのあと片倉家の廟所を訪れた。私は大河ドラマ「独眼竜政宗」で西郷輝彦さんが演じた片倉小十郎の大ファンで、彼の居城だった白石城と、番組で紹介されていた片倉家の廟所にはいつかぜひ行きたいと思っていたのだ。
廟所に着き、小十郎の像の前に立ったとたん、私はまたフリーズした。穏やかな表情の像に目も心も引きつけられ、直立不動で見入っていた。「小十郎…!」と心の中で語りかけていたのかもしれない。これも何とも表現できない感情だったが、今思えば、「小十郎にやっと会えた」という大いなる感激、究極の歓喜だったのだろう。
【 肩ひじ張らない、歴史とのライトな付き合い 】
こういうメモリアルな実体験もあるが、社会人になってからの私の歴史との付き合いは、ほとんどが本かテレビ番組にとどまっている。本といっても、古文書を読む技量はないし(この点、小学生で古文書が読めたという磯田道史さんはすごい。小さいころからこういう真摯な熱意があり、それを保ち続けた人でないと、その道のプロにはなれないんだろうな)、歴史に関する月刊誌を読み込むほどのマニアでもない。何事も「広く(といってもさほどの広さではないが)・浅く」の私なので、歴史についてもそんなに突っ込んではいないのだ。
たとえば歴史小説は、司馬遼太郎作品では「国盗り物語」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」が私にとっての「ビッグ3」で(この3作品は文庫で読んだあとにハードカバー版を買い込み、カラーボックスの一番高いところに鎮座させている)、他に読んだのは「世に棲む日々」「花神」「燃えよ剣」「空海の風景」「殉死」だけ。評論・随筆では「この国のかたち」や「明治という国家」「昭和という国家」は興味深く読んだが、「街道をゆく」はまだ読んでいない。
小説以外では、磯田さんの本は5冊ほど読んだし、以前NHKで放送していた「さかのぼり日本史」の書籍版・全10冊も興味津々に読んだ。「大人が学び直す」系の世界史・日本史の本も何冊か読んでいるし、他の著者の方の歴史に関する本も何冊か読んでいる。
テレビ番組では、NHKの「ライバル日本史」「堂々日本史」「その時歴史が動いた」といった歴代の歴史番組を楽しみ、その多くを録画してきた(もっともドン底生活に落ち込んだ時に昔のものは全部処分してしまったので、これらのビデオは手元には残っていない)。今は「知恵泉」と「歴史秘話ヒストリア」を毎週録画して観ている。今の私の歴史との付き合いはこんな感じだ。
この通り、さほど深い付き合い方ではない。しかし私は、これでいいと思っている。「歴史好きというからには古文書ぐらい読めなきゃ」と力むと自分を苦しめることになるし、「歴史の月刊誌ぐらい読んでなきゃ歴史ファンとは言えないんじゃないか」なんて自分を縛るのもイヤだ。好き、ファンといっても程度は人それぞれだし、「ファンとはこうあらねばならない」なんて掟や不文律があるわけじゃない。
(2014年、サッカーJリーグ・浦和レッズの一部のサポーターが、「”JAPANESE ONLY”(日本人のみ=外国人お断り)」の横断幕を観客席に張り出し、大問題となった。「応援の秩序を乱されたくなかった」というのが彼らの言い分だが、これなどは典型的な「サポーターはかくあるべし」に凝り固まった悪例だ。彼らが無期限入場禁止処分を受けたのも当然だった)
【 歴史好きのメリット:物事を長い目で、大きな流れで捉える視点が身につく 】
歴史を好きになってよかったと思うことはいろいろあるが、一番大きいことは、「物事を中長期的に見る目が養われた」ことだと思う。1つの事件や出来事だけに囚われず、時間のスパンを長く見て、大きな流れとして捉え、見据える。こういう視野を持つと、目先のことに一喜一憂せず、ゆるりと状況を見ることができる。
(…とえらそうなことを言っているが、正直これについては私自身まだまだ修行中だ。何よりも大事な自分の人生について、「時間のスパンを長く見て」「目先のことに一喜一憂せず、ゆるりと状況を見る」ことがなかなか難しいのだ)
次の(2)でスポーツについて語るが、これはスポーツについても同じことがいえる。たとえば、かつては全く不人気だったプロ野球のパ・リーグ。水島新司さんの人気漫画「あぶさん」は、あぶさんこと景浦安武が所属する南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)を中心としたパ・リーグが舞台だったが、連載当初のパ・リーグは観客が極端に少なかった(実際「あぶさん」にも、後楽園球場(当時の巨人の本拠地)が5万人の大観衆を集めたのに対し、南海の本拠地・大阪球場の観客はわずか3,500人というエピソードがあった)。高校生の頃に私が爆笑しながら聴いていた、谷村新司さんがパーソナリティーを務めていたラジオの深夜番組「セイ・ヤング」の名物コーナー「天才・秀才・ばかシリーズ」でも、パ・リーグの不人気ぶりをからかうネタがたくさん投稿されていた。
そのネタを少々:
「ここ藤井寺球場では、近鉄−日本ハムの日程消化ゲームが行われております」
「伝統どころか、客が一人も入らない日本ハム−太平洋12回戦」
「太平洋−近鉄戦。おや、キャッチャーの後ろで主審がごろ寝をしています。おっと、怒った4番土井が文句をつけに行きました。
土井『おい、ふざけたマネして、何やっとんねん』
主審『いいじゃねえか、試合だって、明日の新聞に写真入りで出るわけじゃねえから』」
何とも言いたい放題だが、当時のパ・リーグの不人気ぶりがわかるネタだ。
しかしそれから40余年。今やパ・リーグの球場には観客が大勢押し寄せ、セ・リーグに負けない盛り上がりを見せている。かつては「人気のセ・実力のパ」と言われていたが、今は人気でも決してセ・リーグに劣っていないし、私が見る限りでは、人気も実力もある選手はむしろパ・リーグの方が多く、試合もパ・リーグの方が面白い。
(西武の松坂大輔や菊池雄星、日本ハムのダルビッシュ有や大谷翔平、楽天の田中将大は、ともに日本を代表する投手に成長し、ともにメジャーリーガーになって、本場アメリカでも活躍している。こういう「華のある」選手たちがパ・リーグに集中したことがリーグを盛り上げ、ファンを大いに沸かせてくれているのだ)
失礼、大好きなスポーツのことになると、ついコーフンして話が長くなる。要するに私が言いたいのは、かつては閑散としていたパ・リーグの球場が、その後球団やリーグの努力で観客が増え始め、そこに魅力ある選手たちが入団することでさらに盛り上がり、今の活気あるパ・リーグにつながった。この大きな流れを見る目、俯瞰して見る目を持つと、浅からぬ感慨を抱いたり、苦境と思われていたことが実は必要な試練だったと気づいたりする、ということなのだ。これは個々人の人生についても同じだろう。
(昨年のワールドカップですさまじい盛り上がりを見せたラグビーも同じ。これについては、次の(2)で存分に語らせていただく)
歴史が好きになると、自分の「日本人度」が高まり、日本人としてのアイデンティティーがしっかりと重心に据えられる。その上で世界に目を向け、「世界の中の日本」「国際社会の中の日本人」という視線を持つことができれば、自分の世界は格段に広がり、意識も高まっていくだろう。かく言う私もそういう人間を目指しているところだが、「目指せ国際人!」なんて力むとまた苦しくなり、また中途半端な失敗をして自己嫌悪のネタを増やすことになる。あくまでマイペースに、好きな歴史にもゆるりとさらりと触れながら、日本と世界の動きをゆったりと楽しく眺めていきたい。
2021年01月06日
2021年01月05日
「根無し草人生」を支え、生き永らえさせてくれた「我が大好物たち」(1)歴史・1
どん底にあっても自ら命を絶つまでは至らず、酒に溺れることもなかった。
ギリギリで自分を支えてくれたのは、子供の頃から大好きなものたちだった。
ずっと自分の大好きなものは、「人生の縁の下の力持ち」になる。
(1)歴史:学習漫画をきっかけに大好きになり、受験でも大得意科目。今も大好き継続中
【 マンガのおかげで日本の歴史にのめりこむ 】
私が小学4年生の時だった。学校から帰ると、自分の部屋の本棚にハードカバーの本がズラッと並んでいた。「学習漫画 日本の歴史」全18巻(集英社)。これが私の歴史との付き合いの始まりだった。
私は子供の頃からマンガ大好き少年で、親も私のマンガ好きを見てこれを買ってくれたんだろう。ただいくらマンガ好きでも、頭に「学習」とついている。「何やら難しいことが書いてあるんじゃないのかな。」こういぶかりながら、私は第1巻のページをめくった。
ところが、これがものすごく面白かった。毎日夢中になって読み続け、あっという間に全18巻を読み終えてしまった。その後も何度も読み返し、マンガの画面はしっかり目に刻まれ、ストーリーは頭に定着した。そして歴史上の人物の名前やさまざまな事件名なども、何の苦もなく覚えてしまったのだ(しかもちゃんと漢字で!)。マンガの力、恐るべしである。
これ以来、私は歴史が大好きになり、学校でも得意科目になった。小学6年の時社会科で初めて日本の歴史を習ったが、すでに基礎知識は身についていたので、お茶の子さいさいでこなすことができた(鎌倉幕府の成立を習った頃、休み時間にクラスの友だちとトイレに行く時、「便所(これを「べんどころ」と呼んだ)、政所、侍所に行こうぜ」なんて冗談を言っていたのを思い出す。こういう覚え方だと一生忘れないね)。
【 プラモデルと本から戦争について学ぶ 】
太平洋戦争の頃の日本海軍の軍艦や飛行機に興味を持ち、プラモデルを作り始めたのもこの頃だ。軍艦は「ウォーターラインシリーズ」という、船底を喫水線でカットした700分の1スケールのシリーズがあり、戦艦・空母・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦と、むさぼるように作りまくった。プラカラーを使ったペインティングもかなりマメにやり、空母の艦載機を細かく塗装し、甲板のラインの両側にセロテープを張り、白く塗っていくのが楽しかった。
全部同じスケールだったので、軍艦の大きさを比較できたのも面白かった。戦艦大和や武蔵がどんなに巨艦だったかもよくわかったし、3番艦として建造された信濃が途中から空母に改造され、張られた甲板が他の正規空母と比べてケタ違いに大きいのにも驚いた。艦尾に飛行甲板を張った「航空戦艦」伊勢や「航空巡洋艦」最上も、そのユニークさに興味津々で作った。シリーズにはその後アメリカやイギリス、ドイツの艦船も加わり、米空母エンタープライズやレキシントン、英空母アークロイヤルや英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、独戦艦ビスマルクなども作った。
飛行機は、当時1機100円で買えるシリーズがあったので(当時は消費税などもちろんなかったので、100円ポッキリで買えた 笑)、ゼロ戦(一一型から五二型まで、さまざまな型式をそろえた)、九七艦攻、九九艦爆、彗星、紫電改、飛燕、雷電などの日本の航空機や、ヘルキャット、サンダーボルト、ドーントレス、ウォーホーク、コルセア、ムスタング、ライトニングなどのアメリカの航空機、メッサーシュミットやスピットファイアなどのヨーロッパの航空機も作った。これらの飛行機のペインティングも、艦船と同じように丁寧にやった。これも楽しかった。
これらの艦船のプラモデルには、太平洋戦争での戦歴がくわしく書かれていて、これも興味深く読んだ。そうなると太平洋戦争そのものにも興味が沸いてきて、中学になると「写真で見る太平洋戦争」というジュニア向けのシリーズを読み始めた。読んだのは「真珠湾攻撃」「ゼロ戦と隼」「空母」「大和と武蔵」「神風特攻隊」の5冊だったが、写真や図表が多かったので中学生にもわかりやすく、かなりのめりこんだ。この中で一番面白かったのは、太平洋戦争で主力となった空母と航空機の戦いを描いた「空母」だ。実は去年、突然思い立ってこの本を買おうと思いアマゾンをチェックしたら、思いのほか簡単に手に入った。懐かしさに浸りながら、40余年ぶりの再会を楽しんだ。
こうして書いているうちに、シリーズで読んでいなかった第2巻「シンガポール攻略戦」を読みたくなり、速攻でアマゾンに注文してしまった(笑)。他は太平洋を舞台にした海戦ばかりだったのだが、この本は、「マレー沖海戦」についても描かれているが、「マレー進撃作戦」と「パレンバンの空挺作戦」という陸戦についても描かれている。戦車を使った作戦や落下傘降下による占領作戦は読んだことがなかったので、とても新鮮で興味深かった。「ジュニア向け本、侮るべからず!」だ。
…しかしこの歳になると、戦争の本を子供の頃のような興奮だけでは読めなくなる。戦争では、どんな小さな戦いでも必ず犠牲者が出るからだ。このシンガポール攻略戦も、「マレーの虎」山下奉文司令官(陸軍中将)がイギリス軍のパーシバル司令官に「全面降伏、イエスかノーか!」と迫ったことで有名な、日本陸軍の快勝劇なのだが、そんな勝ち戦さにも戦死者はいる。兵士にとっては1つしかないかけがえのない命なのだが、戦場では「ワンノブゼム」で片づけられてしまうのだ。これは横山光輝さんの「三国志」を読んだ時も思った。敵の城を攻める時、相手の防御態勢を調べるために先遣隊を派遣して軽く攻めるのだが、こんな小手調べの戦いでも必ず死者は出る。その人の人生が奪われ、妻子は大黒柱を失う。戦さ全体から見れば些細なことが、兵士個々人にとっては重大事なのだ。
だから思う。「戦争は、やはり絶対悪だ」。戦争に正義の戦いなどはない。平和主義に積極的も消極的もない。「どアホノミクスの大将」が唱える「積極的平和主義」とは、「『平和をもたらす』を旗印に正義の戦いを仕掛ける」ことなのだろうが(これを国会で本人に正した野党議員はいるのか?)、こんなことは絶対にやってはいけない。戦争で犠牲になるのは、戦地で戦う若い人であり、空襲を受ける一般市民だ。指揮する連中は、かつての大本営のように、安全な場所にこぞって逃げ込む(国会議事堂の地下には核シェルターがあるらしい)。永田町の連中が憲法改正をもくろむのは、自分たちは戦争の犠牲にならずに済むからであり、要するに切実な当事者意識、危機感に欠けているのだ。こんな連中に、この国の行く末は到底任せられないな。
余談が、過ぎた。(司馬遼太郎風)我が「歴史回想」に戻ろう。
【 その後も大好き・大得意は続く:受験でも大きな力に 】
こうしてプラモデルと本にのめりこみながら、中学2年の社会科で再度日本の歴史を習った。我が歴史好きはさらに磨き上げられており、これも楽勝。2学期の中間試験では学年で唯一の100点を取り、先生が「こ〜んな難しいテストなのに100点がいます」とクラスで発表してくれた(これちょっと、いやかなりの自慢 笑)。
さらに、中学3年で観たNHK大河ドラマ「国盗り物語」にはかなりハマった。平幹二朗の斎藤道三、伊丹十三の足利義昭、高橋英樹の織田信長、近藤正臣の明智光秀、日野正平の羽柴秀吉。それぞれがすばらしかった(特に日野さんの秀吉は「猿」にピッタリで、まさにハマリ役だった)。本能寺の変での信長の戦闘シーンのものすごい迫力と、最後の自決シーンの静寂さとのコントラストも強烈に印象に残ったし、秀吉との山崎の合戦に敗れた光秀が、落ち武者狩りの農民の竹槍に討たれ、名もない村の竹藪の中で息絶えるシーンも脳裏に焼きついた。
(この「国盗り物語」、今はDVDを購入して持っており、いつでも観られるようにしている。観るたびに、我が中学時代の興奮が蘇る思いがする)
高校に入ってからも、この「歴史大好き・絶好調」の勢いは止まらなかった。2年で世界史、3年で日本史を習ったが、ともに大得意科目。3年の時は1人で勝手に「世界史協会」を立ち上げ、大学の過去問問題集からピックアップしてクラスの有志を対象に模擬試験を実施し、採点して講評を教室に貼り出すという、今思えば、受験生でありながら予備校の講師のようなこともやっていた。
当然大学受験の社会科も、国立は世界史と日本史、私立は日本史で受験した。一浪はしたが、めでたく第一志望の大学に合格することができた。マンガから始まった私の歴史好きは、大学受験にも大きな力を与えてくれたのだ。
今思えば、こんなに歴史が好きなら、大学でも史学を専攻してその道に進めばよかったんじゃないかと思う(一時それも考えた)。しかし「歴史を仕事にする」となると、大学教授になるなんてかなり狭き門なので、社会科の先生になるのが普通だが、正直自分はあまり先生には向かないと思ったので、結局この道は真剣には考えず、趣味のレベルにとどまった。
(続く)
ギリギリで自分を支えてくれたのは、子供の頃から大好きなものたちだった。
ずっと自分の大好きなものは、「人生の縁の下の力持ち」になる。
(1)歴史:学習漫画をきっかけに大好きになり、受験でも大得意科目。今も大好き継続中
【 マンガのおかげで日本の歴史にのめりこむ 】
私が小学4年生の時だった。学校から帰ると、自分の部屋の本棚にハードカバーの本がズラッと並んでいた。「学習漫画 日本の歴史」全18巻(集英社)。これが私の歴史との付き合いの始まりだった。
私は子供の頃からマンガ大好き少年で、親も私のマンガ好きを見てこれを買ってくれたんだろう。ただいくらマンガ好きでも、頭に「学習」とついている。「何やら難しいことが書いてあるんじゃないのかな。」こういぶかりながら、私は第1巻のページをめくった。
ところが、これがものすごく面白かった。毎日夢中になって読み続け、あっという間に全18巻を読み終えてしまった。その後も何度も読み返し、マンガの画面はしっかり目に刻まれ、ストーリーは頭に定着した。そして歴史上の人物の名前やさまざまな事件名なども、何の苦もなく覚えてしまったのだ(しかもちゃんと漢字で!)。マンガの力、恐るべしである。
これ以来、私は歴史が大好きになり、学校でも得意科目になった。小学6年の時社会科で初めて日本の歴史を習ったが、すでに基礎知識は身についていたので、お茶の子さいさいでこなすことができた(鎌倉幕府の成立を習った頃、休み時間にクラスの友だちとトイレに行く時、「便所(これを「べんどころ」と呼んだ)、政所、侍所に行こうぜ」なんて冗談を言っていたのを思い出す。こういう覚え方だと一生忘れないね)。
【 プラモデルと本から戦争について学ぶ 】
太平洋戦争の頃の日本海軍の軍艦や飛行機に興味を持ち、プラモデルを作り始めたのもこの頃だ。軍艦は「ウォーターラインシリーズ」という、船底を喫水線でカットした700分の1スケールのシリーズがあり、戦艦・空母・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦と、むさぼるように作りまくった。プラカラーを使ったペインティングもかなりマメにやり、空母の艦載機を細かく塗装し、甲板のラインの両側にセロテープを張り、白く塗っていくのが楽しかった。
全部同じスケールだったので、軍艦の大きさを比較できたのも面白かった。戦艦大和や武蔵がどんなに巨艦だったかもよくわかったし、3番艦として建造された信濃が途中から空母に改造され、張られた甲板が他の正規空母と比べてケタ違いに大きいのにも驚いた。艦尾に飛行甲板を張った「航空戦艦」伊勢や「航空巡洋艦」最上も、そのユニークさに興味津々で作った。シリーズにはその後アメリカやイギリス、ドイツの艦船も加わり、米空母エンタープライズやレキシントン、英空母アークロイヤルや英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、独戦艦ビスマルクなども作った。
飛行機は、当時1機100円で買えるシリーズがあったので(当時は消費税などもちろんなかったので、100円ポッキリで買えた 笑)、ゼロ戦(一一型から五二型まで、さまざまな型式をそろえた)、九七艦攻、九九艦爆、彗星、紫電改、飛燕、雷電などの日本の航空機や、ヘルキャット、サンダーボルト、ドーントレス、ウォーホーク、コルセア、ムスタング、ライトニングなどのアメリカの航空機、メッサーシュミットやスピットファイアなどのヨーロッパの航空機も作った。これらの飛行機のペインティングも、艦船と同じように丁寧にやった。これも楽しかった。
これらの艦船のプラモデルには、太平洋戦争での戦歴がくわしく書かれていて、これも興味深く読んだ。そうなると太平洋戦争そのものにも興味が沸いてきて、中学になると「写真で見る太平洋戦争」というジュニア向けのシリーズを読み始めた。読んだのは「真珠湾攻撃」「ゼロ戦と隼」「空母」「大和と武蔵」「神風特攻隊」の5冊だったが、写真や図表が多かったので中学生にもわかりやすく、かなりのめりこんだ。この中で一番面白かったのは、太平洋戦争で主力となった空母と航空機の戦いを描いた「空母」だ。実は去年、突然思い立ってこの本を買おうと思いアマゾンをチェックしたら、思いのほか簡単に手に入った。懐かしさに浸りながら、40余年ぶりの再会を楽しんだ。
こうして書いているうちに、シリーズで読んでいなかった第2巻「シンガポール攻略戦」を読みたくなり、速攻でアマゾンに注文してしまった(笑)。他は太平洋を舞台にした海戦ばかりだったのだが、この本は、「マレー沖海戦」についても描かれているが、「マレー進撃作戦」と「パレンバンの空挺作戦」という陸戦についても描かれている。戦車を使った作戦や落下傘降下による占領作戦は読んだことがなかったので、とても新鮮で興味深かった。「ジュニア向け本、侮るべからず!」だ。
…しかしこの歳になると、戦争の本を子供の頃のような興奮だけでは読めなくなる。戦争では、どんな小さな戦いでも必ず犠牲者が出るからだ。このシンガポール攻略戦も、「マレーの虎」山下奉文司令官(陸軍中将)がイギリス軍のパーシバル司令官に「全面降伏、イエスかノーか!」と迫ったことで有名な、日本陸軍の快勝劇なのだが、そんな勝ち戦さにも戦死者はいる。兵士にとっては1つしかないかけがえのない命なのだが、戦場では「ワンノブゼム」で片づけられてしまうのだ。これは横山光輝さんの「三国志」を読んだ時も思った。敵の城を攻める時、相手の防御態勢を調べるために先遣隊を派遣して軽く攻めるのだが、こんな小手調べの戦いでも必ず死者は出る。その人の人生が奪われ、妻子は大黒柱を失う。戦さ全体から見れば些細なことが、兵士個々人にとっては重大事なのだ。
だから思う。「戦争は、やはり絶対悪だ」。戦争に正義の戦いなどはない。平和主義に積極的も消極的もない。「どアホノミクスの大将」が唱える「積極的平和主義」とは、「『平和をもたらす』を旗印に正義の戦いを仕掛ける」ことなのだろうが(これを国会で本人に正した野党議員はいるのか?)、こんなことは絶対にやってはいけない。戦争で犠牲になるのは、戦地で戦う若い人であり、空襲を受ける一般市民だ。指揮する連中は、かつての大本営のように、安全な場所にこぞって逃げ込む(国会議事堂の地下には核シェルターがあるらしい)。永田町の連中が憲法改正をもくろむのは、自分たちは戦争の犠牲にならずに済むからであり、要するに切実な当事者意識、危機感に欠けているのだ。こんな連中に、この国の行く末は到底任せられないな。
余談が、過ぎた。(司馬遼太郎風)我が「歴史回想」に戻ろう。
【 その後も大好き・大得意は続く:受験でも大きな力に 】
こうしてプラモデルと本にのめりこみながら、中学2年の社会科で再度日本の歴史を習った。我が歴史好きはさらに磨き上げられており、これも楽勝。2学期の中間試験では学年で唯一の100点を取り、先生が「こ〜んな難しいテストなのに100点がいます」とクラスで発表してくれた(これちょっと、いやかなりの自慢 笑)。
さらに、中学3年で観たNHK大河ドラマ「国盗り物語」にはかなりハマった。平幹二朗の斎藤道三、伊丹十三の足利義昭、高橋英樹の織田信長、近藤正臣の明智光秀、日野正平の羽柴秀吉。それぞれがすばらしかった(特に日野さんの秀吉は「猿」にピッタリで、まさにハマリ役だった)。本能寺の変での信長の戦闘シーンのものすごい迫力と、最後の自決シーンの静寂さとのコントラストも強烈に印象に残ったし、秀吉との山崎の合戦に敗れた光秀が、落ち武者狩りの農民の竹槍に討たれ、名もない村の竹藪の中で息絶えるシーンも脳裏に焼きついた。
(この「国盗り物語」、今はDVDを購入して持っており、いつでも観られるようにしている。観るたびに、我が中学時代の興奮が蘇る思いがする)
高校に入ってからも、この「歴史大好き・絶好調」の勢いは止まらなかった。2年で世界史、3年で日本史を習ったが、ともに大得意科目。3年の時は1人で勝手に「世界史協会」を立ち上げ、大学の過去問問題集からピックアップしてクラスの有志を対象に模擬試験を実施し、採点して講評を教室に貼り出すという、今思えば、受験生でありながら予備校の講師のようなこともやっていた。
当然大学受験の社会科も、国立は世界史と日本史、私立は日本史で受験した。一浪はしたが、めでたく第一志望の大学に合格することができた。マンガから始まった私の歴史好きは、大学受験にも大きな力を与えてくれたのだ。
今思えば、こんなに歴史が好きなら、大学でも史学を専攻してその道に進めばよかったんじゃないかと思う(一時それも考えた)。しかし「歴史を仕事にする」となると、大学教授になるなんてかなり狭き門なので、社会科の先生になるのが普通だが、正直自分はあまり先生には向かないと思ったので、結局この道は真剣には考えず、趣味のレベルにとどまった。
(続く)
2016年01月30日
歴史上の人物で、あなたが好きな人は? 上司にしたくない人は? 会いたい人は?
NHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」のホームページで面白いアンケートをやっていたので、下記のように答えた。(答えは選択肢だけ。各問いには共通の選択肢が設けてある)
・好きな人物/伊達政宗:我がルーツ・東北の最大のヒーロー。大きな三日月の前立、漆黒の鎧兜。「伊達者」の語源となった政宗、一人だけ挙げよといわれるとこの人しかない。
※ 本当は政宗のブレインだった片倉小十郎が一番好きなのだが、選択肢になかったのでその主君たる政宗にした。小十郎の、常に大局を見据え、冷静沈着に事を処す姿勢にはいたく感銘する。
・嫌いな人物/平清盛:武家の棟梁のくせに公家の真似をして、天皇家の外戚になって権力をふるった。大嫌いではないが、この「武士から逸脱した軟弱な所業」が気に入らない。
・上司にしたい/吉田松陰:生徒たちと同じ目線に立ち、「ともに学ぼう」という姿勢がすばらしい。先見の明があり、大きなビジョンと夢を描かせてくれるスケールの大きさが魅力だ。
・上司にしたくない/織田信長:こんな人の下についたら命がいくつあっても足りない。一つ目標を達成してもさらに高いハードルを設定されるし、すぐキレるので、気の休まる暇がない。こんな上司は絶対に持ちたくないね。
・部下にしたい/豊臣秀吉:とにかく機転が利いてフットワークが軽いので、使いやすいことこの上ない。元の身分が低いのでよけいなプライドを持っていないのもいい。しかも主君には忠実。最高の部下だろう。
・部下にしたくない/源義経:能力は高いのだが、独断専行が多いのが困る。この人は上下関係の枠の中ではなく、遊撃隊として戦場で自由に働かせるのが一番いいだろう。
・妻にしたい/おね(豊臣秀吉正室):夫を大らかな愛情で包むよき女性、というイメージが強い。しかもただ控えめなだけではなく、時には夫に対して的確な進言を行うこともあった。「かしこく芯が強い」理想の妻ではないか。
・妻にしたくない/清少納言:知性と教養にあふれているのはいいのだが、あふれすぎて疲れそうだ。常に高尚でいなければならないから、気を緩められない。こういう人がパートナーでは疲れる。
・一緒に酒を飲みたい/勝海舟:幕府のお役人でありながら気さくな人柄で、いろいろと面白い話を聞かせてくれそうだ。この人の話はスケールが大きく、幕府や日本の枠を超えるだろう。楽しそうだなあ。
・一緒に酒を飲みたくない/織田信長:「無礼講」を鵜呑みにしたらたちまちに成敗されそうだ。こういう人の前では緊張して酔えないかも。酒もおいしくないだろう。
・この人に会いたい/宮本武蔵:対外試合全勝無敗の、孤高の天才剣士。どういう風貌、どんな雰囲気の人なのか。その心の内もじっくり聞いてみたいものだ。
・取り上げてほしい世界史の人物/
男性1人:シーザー(カエサル):古代ローマ帝国の実質的な最高権力者。征服した地を高圧的にではなく、その文化や社会を尊重して宥和政策を取った。しかし暗殺されたのは、内には厳しく強権的な人だったのか? そこが知りたい。
女性1人:エカテリーナ女帝:ロシア帝国に栄華をもたらした女傑。大変な男好きだったらしいが、それよりもその政治手腕を詳しく知りたい。
さて、皆さんならだれを選びますか? あなたも番組HP(https://www.nhk.or.jp/historia/enquete/)から答えてみては?
※ このアンケート結果は、3月16日放送のヒストリアで発表されます。
・好きな人物/伊達政宗:我がルーツ・東北の最大のヒーロー。大きな三日月の前立、漆黒の鎧兜。「伊達者」の語源となった政宗、一人だけ挙げよといわれるとこの人しかない。
※ 本当は政宗のブレインだった片倉小十郎が一番好きなのだが、選択肢になかったのでその主君たる政宗にした。小十郎の、常に大局を見据え、冷静沈着に事を処す姿勢にはいたく感銘する。
・嫌いな人物/平清盛:武家の棟梁のくせに公家の真似をして、天皇家の外戚になって権力をふるった。大嫌いではないが、この「武士から逸脱した軟弱な所業」が気に入らない。
・上司にしたい/吉田松陰:生徒たちと同じ目線に立ち、「ともに学ぼう」という姿勢がすばらしい。先見の明があり、大きなビジョンと夢を描かせてくれるスケールの大きさが魅力だ。
・上司にしたくない/織田信長:こんな人の下についたら命がいくつあっても足りない。一つ目標を達成してもさらに高いハードルを設定されるし、すぐキレるので、気の休まる暇がない。こんな上司は絶対に持ちたくないね。
・部下にしたい/豊臣秀吉:とにかく機転が利いてフットワークが軽いので、使いやすいことこの上ない。元の身分が低いのでよけいなプライドを持っていないのもいい。しかも主君には忠実。最高の部下だろう。
・部下にしたくない/源義経:能力は高いのだが、独断専行が多いのが困る。この人は上下関係の枠の中ではなく、遊撃隊として戦場で自由に働かせるのが一番いいだろう。
・妻にしたい/おね(豊臣秀吉正室):夫を大らかな愛情で包むよき女性、というイメージが強い。しかもただ控えめなだけではなく、時には夫に対して的確な進言を行うこともあった。「かしこく芯が強い」理想の妻ではないか。
・妻にしたくない/清少納言:知性と教養にあふれているのはいいのだが、あふれすぎて疲れそうだ。常に高尚でいなければならないから、気を緩められない。こういう人がパートナーでは疲れる。
・一緒に酒を飲みたい/勝海舟:幕府のお役人でありながら気さくな人柄で、いろいろと面白い話を聞かせてくれそうだ。この人の話はスケールが大きく、幕府や日本の枠を超えるだろう。楽しそうだなあ。
・一緒に酒を飲みたくない/織田信長:「無礼講」を鵜呑みにしたらたちまちに成敗されそうだ。こういう人の前では緊張して酔えないかも。酒もおいしくないだろう。
・この人に会いたい/宮本武蔵:対外試合全勝無敗の、孤高の天才剣士。どういう風貌、どんな雰囲気の人なのか。その心の内もじっくり聞いてみたいものだ。
・取り上げてほしい世界史の人物/
男性1人:シーザー(カエサル):古代ローマ帝国の実質的な最高権力者。征服した地を高圧的にではなく、その文化や社会を尊重して宥和政策を取った。しかし暗殺されたのは、内には厳しく強権的な人だったのか? そこが知りたい。
女性1人:エカテリーナ女帝:ロシア帝国に栄華をもたらした女傑。大変な男好きだったらしいが、それよりもその政治手腕を詳しく知りたい。
さて、皆さんならだれを選びますか? あなたも番組HP(https://www.nhk.or.jp/historia/enquete/)から答えてみては?
※ このアンケート結果は、3月16日放送のヒストリアで発表されます。
2013年01月11日
戦国時代最強の「覇王」は誰だ?
NHKで3日に放送された「覇王伝説〜最強の戦国武将は誰だ?」は、歴史ファンとしては興味津々の番組だった。名だたる戦国武将の中から視聴者アンケートと専門家の意見をもとに8名をノミネートし、7つのステージを定め、それぞれについてランキングして採点し、その総合得点で戦国最強の「覇王」を決めようというものだ。
ノミネートされたのは、北条早雲・毛利元就・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗の8人。いずれも一時代を築き、北条早雲以外の7人は、NHKの大河ドラマでも主人公になったことがある(特に信長・秀吉・家康の「ビッグ3」は、何度登場したか、何人の役者が演じたか数えきれない)、日本が世界に誇ると言っていい名将だ。
この「戦国の英傑」8人を、7つのステージでランキングし、評点していく。このステージの設定も面白いが、それぞれのステージで示されるデータ・数字やさまざまなエピソードもあまり知られていなかったものが多く、これも興味津々だった。
【 STAGE T 】 兵力
どれだけの兵力を動員できたかでランキングする。ここはやはり天下人となった家康(450,000人)・秀吉(400,000人)が強く、その一歩手前まで行った信長(200,000人)が続く。このビッグ3がケタ違いに多く、4位以下(毛利元就35,000人、武田信玄33,000人、伊達政宗28,000人、上杉謙信25,000人、北条早雲6,000人)を大きく引き離している(早雲の時代はまだ戦国の草創期で、さほどの大軍勢を率いた戦いはなかった)。
このビッグ3の大兵力の秘密は、専門武士団の養成にあった。戦国時代中期までは兵は農民兵が主だったが、彼らは農作業の繁忙期には徴用しにくい。そこで比較的動きやすい農家の二男・三男らを金で雇い、訓練を施し、軍装を整えて、専門の武士軍団を造り上げたのだ。これは常時徴用できること(=兵力の増強)と、戦さのプロとして鍛え上げることができること(=兵のレベルアップ)、この質量両面のメリットがあった。
【 STAGE U 】 勝率
生涯の戦さのトータルで何勝何敗だったかを示す。どうやってこれを数えたのかと思うが、かなり詳細な数字が出てきた。ランキング順で言うと、
1位:武田信玄/94.3%(50勝3敗)
2位:毛利元就/90.2%(37勝4敗)
3位:織田信長/89.4%(118勝14敗)
4位:上杉謙信/87.8%(43勝6敗)
5位:伊達政宗/87.5%(14勝2敗)
6位:豊臣秀吉/87.1%(121勝18敗)
7位:徳川家康/84.8%(67勝12敗)
8位:北条早雲/81.3%(13勝3敗)
信玄勝率トップの秘密は、一つには「風林火山」のキャッチフレーズにもある通りの、騎馬軍団を率いての機を見るに敏なる疾風怒濤の戦いぶり。そしてもう一つは、「負けない戦さ」にあった。引き分けが合計22回。あまりに有名な謙信との川中島の戦いは5度にわたって行われたが、結局決着はつかなかった。知略を駆使しても勝つまでには至らないと思った時は、潔く兵を引いて引き分けに持ち込む。この堅実で冷静な、兵を大事にする信玄の戦いが人心をつかみ、武田を最強軍団にのし上げていったのだ。
【 STAGE V 】 経済力
鉄砲(火縄銃)1丁が約70万円、足軽1人の1か月当たりの人件費が20万円。総勢16万人が戦った「天下分け目」関ヶ原の戦いにかかったコストは、一説には500億円!と言われている。武将の力の源となる経済力を、3人の専門家(小和田哲男・静岡大学名誉教授/本郷和人・東京大学史料編纂所教授/加来耕三・作家)が検証する。
ポイントは「石高」「商業・交易」「ビジネスセンス」の3点。領地の大きさや豊かさだけではない、トータルな経済センスが問われる。
8位:武田信玄/甲斐・信濃という山あいの豊かとはいえない地が領地だったことに加え、かつては豊かだった甲斐の金山を無計画に掘り進めたために、信玄の時代にはついに鉱脈が枯れ始めた。これでは経済センスがいいとは言いがたい。
7位:北条早雲/領地は伊豆・相模の2国のみであり、石高の絶対量が他の7人と比べると少ない。しかしこれは早雲の時代のことであり、その後北条氏は領地拡張を続け、ついには小田原城を本拠に関東一円を収めるに至った。そのさきがけとなった早雲はやはり偉大だったと言わねばならない。
6位:徳川家康/天下人が意外な低評価。秀吉の時代までは銭本位制だったものを、石高(米)本位制にした。これが経済発展の流れに逆行する保守的なやり方とみなされた。
5位:伊達政宗/年貢を納めたあとの余った米を農民から買い上げ(買米制)、それを大消費地である江戸で売りさばいて巨利を得た。領地の農民は現金収入を得、領主たる伊達家も大いに潤った。これは見事な”win-win”政策である。
4位:毛利元就/日本有数の銀山であった石見銀山を激しい争奪戦の末に手中にした手腕には高い評価。しかし山陽道という交通の要衝を手にしながら、さほど活性化できなかった点でマイナス評価され、ベスト3入りを逃した。
3位:上杉謙信/もともと豊かな穀倉地帯であった越後。これに加え越後は、当時の日本人の主要な衣服であった麻の原材料であるアオソが多く自生する土地でもあった。これを謙信は専売制とし、栽培と加工を奨励した。こうして麻布の生産を盛んにし、これを京都などの大都市で売った。肌触りのいい越後の麻は貴族から庶民にまで大評判になり、今の価格で年間40億円にも及ぶ巨大な利益をもたらした。
2位:織田信長/まず注目されたのは道路行政。それまでは敵からの攻撃を防ぐために幅2mほどで曲がりくねっていた道を、幅4m・長さ30qにも渡る街道に造り直した。また領内に当時としては画期的な楽市・楽座(場所代や売上税を免除)を設置し、多くの商人を引き寄せた。こうして物や人の行き来を容易にし、マーケットが広がったことで、商業が飛躍的に発展した。ただこれでは敵の攻撃も受けやすくなるが、信長はこの道路に通行税を設け、その税収入で武士を雇い、街道沿いに配置して警護に当たらせた。
1位:豊臣秀吉/天下統一ののち、全国の穀倉地帯や金山を太閤蔵入地(直轄地)にし、本拠地である大坂と船で結んで交易ルートを作り、現地での生産品を売値の高い大坂で売りさばいて巨利を得た。流通ネットワークの構築と大マーケットを利用した経済力の強化という、一石二鳥の妙手である。
【 STAGE W 】 健康力
戦国時代随一の名医であった曲真瀬道三の著書(戦国武将の診察記録をまとめたもの)をもとに、彼らの健康度をチェックする。
織田信長(享年49歳)/激高しやすい性格から、かなりの高血圧であったと推定される。本能寺の変がなくてもあまり長生きはできなかったのではないかと思われ、ここでは低評価。
上杉謙信(享年49歳)/幼少のころ寺で修行をし、粗食が身についていた謙信だが、大の酒好きだった。うまい越後の酒に酔いしれ、命を縮めたようだ。
武田信玄(享年53歳)・豊臣秀吉(享年62歳)/ともによく行ったのが温泉。特に秀吉は有馬(兵庫県)の温泉が好きで、蒸し風呂によく入っていたらしい。
毛利元就(享年75歳)/若いころから体をよく鍛えていた。また冬には雪合戦を盛んに行い、体を動かしにくい季節にこうして筋力を鍛えた。
伊達政宗(享年70歳)/政宗には医学の心得があり、担当医に薬の処方を細かく指示するほどだった。
徳川家康(享年75歳)/なんと自ら薬を作っていた。方々から生薬を取り寄せ、自分で配合して薬を作っていたのだ。
北条早雲(享年88歳)/当時としては常識はずれの長寿。その秘訣は「早寝早起き」、好んで食べた「梅干」、そして「良薬」だった。早雲は民の信望を集め、民を暮らしやすくするために、食料と健康を守るための良薬が必要と考え、将軍家や天皇家も愛用した中国渡来の胃腸薬「ういらう」を領内で製造販売させた(もちろん自分も服用した)。終生民を慈しんだ早雲らしいエピソードである。
このランキングは高齢者、医療関係者、サラリーマンら50人の1人2票の投票で行われた。結果は1位家康、2位早雲。これは納得だが、それ以下は必ずしも長寿=健康力とはなっていない(たとえば酒で早死にした謙信が3位で、高齢になっても運動を心がけて75歳まで生きた元就が最下位になっており、これはおかしい)。ということで、3位以下の結果には個人的には納得していないので、ここには書かない。
【 STAGE X 】 外交力
戦わずして勝利を収める外交力。同盟、婚姻、内応者工作など、交渉力や知略が求められる。戦国時代の「知恵者」を、再び専門家3人がランキングする。
8位は上杉謙信。義を重んじ、策略を嫌った謙信は、外交上手とはいえない。7位は伊達政宗、6位は武田信玄。5位には、他国のお家騒動に乗じて領地を奪った手腕が評価された北条早雲が入った。4位は豊臣秀吉。晩年の朝鮮出兵の失敗が響き、高い評価は得られなかった。
3位:織田信長/流浪をかこっていた足利義昭を将軍に仕立て上げ、その権威を利用して上洛を果たす。また石山本願寺との戦いに苦慮すると、将軍義昭を裏で動かして正親町天皇に停戦の命令を下させる。伝統的な権威さえも道具として利用してしまう信長。常識にとらわれない「戦国の革命児」の面目躍如の外交手腕である。
2位:毛利元就/安芸の小領主に過ぎなかった元就だが、長男以外の子たちを吉川、小早川などのライバル領主の養子に送り込み、彼らが成人して家督を継ぐことで実質的な毛利の領地となった。こうして安芸一国の領主となったあと、最大のライバルであった尼子氏に対しては、「内部に裏切り者がいる」という偽手紙で内紛を起こさせ、それに乗じて尼子氏を滅ぼした。元就は武力とともに、知略外交の妙によって中国地方を統一したのである。
1位:徳川家康/離合集散と裏切りが茶飯事だった戦国時代にあって、21歳の時に信長と結んだ清州同盟を最後まで破らなかった(信長によって正室の築山殿と嫡男の信康を死に追いやることを強いられたが、それでも信長を裏切らなかった)。この誠実な姿勢が、信長のみならず天下の信用を得た。関ヶ原の戦いの前、石田三成が家康に味方した武将の妻子を人質に取った時、家康は「妻子を守るために三成方についてもかまわない」と言ったが、家康の誠実さを信頼していた武将たちは、徳川方として戦うことを誓った。愚直なまでの真面目外交が人心をつかみ、家康に天下をもたらしたのである。
【 STAGE Y 】 ファッション力
武将たちの甲冑から、彼らのファッションセンスと威厳、自己表現力を測る。
ここでも街中の50人による1人2票の投票で決めた。対象となったのは、日本滞在中の外国人、銀座の和服姿の女性たちと、ファッション専門学校の生徒たちだ。
1位はやはりというか、伊達政宗。「伊達者」の語源となったと言われる政宗、漆黒に統一した鎧兜に、キラリと光る大きな三日月。現代でも通用する抜群のファッションセンスである。
2位は織田信長。対象になったのは桶狭間の戦いの時の甲冑。このころはまだ身につけていた甲冑も正統派だが、それでも高評価を得た。しかし信長のファッションセンスがより際立ったのはこのあとで、西洋風の甲冑やマントを身にまとったりした。評価するならこのころを見るべきだと思うが、たぶんこのころの甲冑が現存していないのだろう。
3位以下はポイントが大きく離れているのでノーコメントとする。確かに戦国武将のファッションというと、信長と政宗の2人が真っ先に思い浮かぶ。この時代では他の追随を許さず、だろう。
【 STAGE Z 】 リーダー力
人の上に立つ者に求められるものの最たるものが、このリーダー力といえるだろう。ステージの最後にこれを持ってきたのは納得だ。名だたる戦国武将8人のリーダー力を検証する。
北条早雲:「慈」の人。領地に課する年貢を5割から4割に減らし、領内で疫病が発生すると京から薬を取り寄せて領民に配った。若き日に応仁の乱による民の苦しみを目の当たりにし、慈悲の心で領地を治めることの大切さを知ったのである。
上杉謙信:「義」の人。助けを求められれば他国へも出陣し、勇猛な戦いで窮地を救った。室町幕府から授かった関東管領の任務を忠実に全うし、関東に変事があればすぐに駆けつけて混乱を収めた。宿敵・武田信玄に塩を送ったというあまりにも有名なエピソードでも示されているように、頑なに義を貫いた人であった。
伊達政宗:「夢」の人。1611年、仙台は大地震に襲われ、大津波に飲まれて5,000人以上が犠牲になった。政宗は復興のために新田開発を進め、領民もこれに応えて土地はよみがえった。また遠く太平洋を渡り、メキシコからスペインへと船を送って海外との交易を目指した。大災害という逆境のさ中に政宗は壮大な夢を描き、民を導いたのである。
武田信玄:「和」の人。武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように、信玄は独断専行をせず、何事も家臣団との合議で決した。家臣の意見をよく聞き、人の和によって領国統治を進めたのである。
豊臣秀吉:「才」の人。主君・織田信長が討たれた本能寺の変の時、秀吉は備中・高松城攻めのさ中にあった。知らせを聞いた秀吉は敵と巧みに和睦し、すぐさま取って返した。有名な「中国大返し」である。200kmを10日で戻るという強行軍。兵たちは疲れ切っていたが、途中の姫路城で秀吉は、今の価値で50億円に及ぶ「恩賞の先払い」をして兵たちを奮い立たせ、山崎の合戦で明智光秀を破って主君の仇討ちを果たした。巧みな方策によって味方を次々に増やし、「人たらし」と呼ばれた秀吉の、面目躍如の戦いだった。
毛利元就:「智」の人。STAGEXの「外交力」で見たような、知略を駆使して戦わずして領地を広げる巧妙さ。そして戦さでも、厳島の戦いに見られるような、敵の大軍を狭い島での戦いにおびき寄せ、激しい風雨の夜に奇襲をかけ、4,000の兵で20,000の敵軍を破った。敵の裏をかき、意表を突く巧みな戦術で、元就は中国地方の覇者にのし上がったのだ。
徳川家康:「柔」の人。武田信玄との三方が原の戦いで家康は大敗北を喫するが、敗戦直後の自分のみじめな姿を絵師に描かせ(「しかめ像」として現存している)、生涯の戒めとした。その後の長篠の戦いなどを経て武田氏は滅亡するが、家康は有能な武田軍団を召し抱え、関ヶ原の戦いでも重用した(「関ヶ原合戦屏風」に、赤の甲冑の武田軍団が描かれている)。かつての敵でも、有能で忠誠心が厚ければ重く用いる。この家康の柔軟な人使いが人望を集め、天下取りへとつながっていったのである。
織田信長:「志」の人。戦国時代、いや日本の合戦史上最大の逆転劇と言われる桶狭間の戦い。2,000の織田軍が25,000の今川軍に勝利できたのは、合戦前の信長の一言にあった。「分捕りはせず、首は捨てておけ」。当時、兵にとっては恩賞を受ける証である敵の首をたくさん取ることが何よりの目的だった。しかし信長はこの戦いで、「狙うは今川義元の首ただ一つ!」と戦いのビジョンを明確にし、兵たちの意思を一点に集中させた。織田軍は全軍で義元の本陣5,000を突き、他の兵には目もくれず義元を目指し、見事にその首を挙げた。その後は「天下布武」のスローガンの下に家臣を率い、武力による天下制覇を目指して邁進した。信長の口癖「死のふは一定」(人は必ず死ぬ)。「生きているうちに何ができるか、残せるか」を常に胸に抱き、明確なビジョンを定め、強靭な意志でそれを実現していったのである。
このリーダー力は、スタジオのゲストと歴史ファン50人の一人2票の投票で決めた。結果は、
1位:信長 2位:家康・政宗 4位:秀吉 5位:早雲・謙信 7位:元就 8位:信玄
やはり強烈なリーダーシップで家臣団を率いた信長がトップ。「柔」の家康と「夢」の政宗が同率で2位。「慈」の早雲が5位に健闘しているのが目につく。
そして総合ポイントランキングは、
1位:織田信長 4,400点 2位:徳川家康 4,100点
3位:豊臣秀吉 3,600点 4位:毛利元就 3,300点
5位:伊達政宗 3,200点 6位:武田信玄 2,600点
7位:上杉謙信 2,500点 8位:北条早雲 2,100点
これはあくまでもごく一部の人たちの投票で決まったことであり、これで決定!というものではもちろんない。しかし一定の傾向は見えていると思う。
早雲が最下位になってしまったのは、彼の時代はまだ戦国の初期であり、戦いのスケールも小さく、経済基盤も大きくなかったことが響いている。しかし常に領民への慈悲の心を持っていた早雲は、個人的には大好きで尊敬に値する武将であり、「こんな数字で評価できる人じゃない」と思っている。
5位の政宗は、東北というこれも比較的戦いや経済基盤のスケールが小さいところを本拠地にしていたこと、そして彼が頭角を現したのは秀吉の小田原攻めのころで、すでに天下の趨勢が決まりつつあった時代であり、覇を競うまでには至らなかったことが響いた(のちに政宗は、「自分があと20年早く生まれていたら天下を取っていた」と家臣に述懐したという)。しかしファッションや海外交易、買米制など、彼のやることにはセンスの良さを感じさせる。一言で言えば「カッコいい!」のだ。自分のルーツが東北にあることもあり、大河ドラマ「独眼竜政宗」での渡辺謙さんのエネルギッシュな名演に心酔したことも相まって、政宗は私にとっては、戦国最大最高のヒーローなのである。
トップ3はやはりこの3人になった。まあ順当な結果だろう。この「戦国のビッグ3」については、改めてコメントすることはない。
それにしても面白い番組だった。いずれも名だたる武将だが、こうしていろいろな角度からチェックすると、彼らを総合的に見ることができ、それぞれの特徴や長所がよくわかる。NHKはこれまでも多くの優れた歴史番組を我々視聴者に提供してくれたが、この番組は戦国時代に関する歴史番組の一つの集大成と言っていいだろう。
ノミネートされたのは、北条早雲・毛利元就・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗の8人。いずれも一時代を築き、北条早雲以外の7人は、NHKの大河ドラマでも主人公になったことがある(特に信長・秀吉・家康の「ビッグ3」は、何度登場したか、何人の役者が演じたか数えきれない)、日本が世界に誇ると言っていい名将だ。
この「戦国の英傑」8人を、7つのステージでランキングし、評点していく。このステージの設定も面白いが、それぞれのステージで示されるデータ・数字やさまざまなエピソードもあまり知られていなかったものが多く、これも興味津々だった。
【 STAGE T 】 兵力
どれだけの兵力を動員できたかでランキングする。ここはやはり天下人となった家康(450,000人)・秀吉(400,000人)が強く、その一歩手前まで行った信長(200,000人)が続く。このビッグ3がケタ違いに多く、4位以下(毛利元就35,000人、武田信玄33,000人、伊達政宗28,000人、上杉謙信25,000人、北条早雲6,000人)を大きく引き離している(早雲の時代はまだ戦国の草創期で、さほどの大軍勢を率いた戦いはなかった)。
このビッグ3の大兵力の秘密は、専門武士団の養成にあった。戦国時代中期までは兵は農民兵が主だったが、彼らは農作業の繁忙期には徴用しにくい。そこで比較的動きやすい農家の二男・三男らを金で雇い、訓練を施し、軍装を整えて、専門の武士軍団を造り上げたのだ。これは常時徴用できること(=兵力の増強)と、戦さのプロとして鍛え上げることができること(=兵のレベルアップ)、この質量両面のメリットがあった。
【 STAGE U 】 勝率
生涯の戦さのトータルで何勝何敗だったかを示す。どうやってこれを数えたのかと思うが、かなり詳細な数字が出てきた。ランキング順で言うと、
1位:武田信玄/94.3%(50勝3敗)
2位:毛利元就/90.2%(37勝4敗)
3位:織田信長/89.4%(118勝14敗)
4位:上杉謙信/87.8%(43勝6敗)
5位:伊達政宗/87.5%(14勝2敗)
6位:豊臣秀吉/87.1%(121勝18敗)
7位:徳川家康/84.8%(67勝12敗)
8位:北条早雲/81.3%(13勝3敗)
信玄勝率トップの秘密は、一つには「風林火山」のキャッチフレーズにもある通りの、騎馬軍団を率いての機を見るに敏なる疾風怒濤の戦いぶり。そしてもう一つは、「負けない戦さ」にあった。引き分けが合計22回。あまりに有名な謙信との川中島の戦いは5度にわたって行われたが、結局決着はつかなかった。知略を駆使しても勝つまでには至らないと思った時は、潔く兵を引いて引き分けに持ち込む。この堅実で冷静な、兵を大事にする信玄の戦いが人心をつかみ、武田を最強軍団にのし上げていったのだ。
【 STAGE V 】 経済力
鉄砲(火縄銃)1丁が約70万円、足軽1人の1か月当たりの人件費が20万円。総勢16万人が戦った「天下分け目」関ヶ原の戦いにかかったコストは、一説には500億円!と言われている。武将の力の源となる経済力を、3人の専門家(小和田哲男・静岡大学名誉教授/本郷和人・東京大学史料編纂所教授/加来耕三・作家)が検証する。
ポイントは「石高」「商業・交易」「ビジネスセンス」の3点。領地の大きさや豊かさだけではない、トータルな経済センスが問われる。
8位:武田信玄/甲斐・信濃という山あいの豊かとはいえない地が領地だったことに加え、かつては豊かだった甲斐の金山を無計画に掘り進めたために、信玄の時代にはついに鉱脈が枯れ始めた。これでは経済センスがいいとは言いがたい。
7位:北条早雲/領地は伊豆・相模の2国のみであり、石高の絶対量が他の7人と比べると少ない。しかしこれは早雲の時代のことであり、その後北条氏は領地拡張を続け、ついには小田原城を本拠に関東一円を収めるに至った。そのさきがけとなった早雲はやはり偉大だったと言わねばならない。
6位:徳川家康/天下人が意外な低評価。秀吉の時代までは銭本位制だったものを、石高(米)本位制にした。これが経済発展の流れに逆行する保守的なやり方とみなされた。
5位:伊達政宗/年貢を納めたあとの余った米を農民から買い上げ(買米制)、それを大消費地である江戸で売りさばいて巨利を得た。領地の農民は現金収入を得、領主たる伊達家も大いに潤った。これは見事な”win-win”政策である。
4位:毛利元就/日本有数の銀山であった石見銀山を激しい争奪戦の末に手中にした手腕には高い評価。しかし山陽道という交通の要衝を手にしながら、さほど活性化できなかった点でマイナス評価され、ベスト3入りを逃した。
3位:上杉謙信/もともと豊かな穀倉地帯であった越後。これに加え越後は、当時の日本人の主要な衣服であった麻の原材料であるアオソが多く自生する土地でもあった。これを謙信は専売制とし、栽培と加工を奨励した。こうして麻布の生産を盛んにし、これを京都などの大都市で売った。肌触りのいい越後の麻は貴族から庶民にまで大評判になり、今の価格で年間40億円にも及ぶ巨大な利益をもたらした。
2位:織田信長/まず注目されたのは道路行政。それまでは敵からの攻撃を防ぐために幅2mほどで曲がりくねっていた道を、幅4m・長さ30qにも渡る街道に造り直した。また領内に当時としては画期的な楽市・楽座(場所代や売上税を免除)を設置し、多くの商人を引き寄せた。こうして物や人の行き来を容易にし、マーケットが広がったことで、商業が飛躍的に発展した。ただこれでは敵の攻撃も受けやすくなるが、信長はこの道路に通行税を設け、その税収入で武士を雇い、街道沿いに配置して警護に当たらせた。
1位:豊臣秀吉/天下統一ののち、全国の穀倉地帯や金山を太閤蔵入地(直轄地)にし、本拠地である大坂と船で結んで交易ルートを作り、現地での生産品を売値の高い大坂で売りさばいて巨利を得た。流通ネットワークの構築と大マーケットを利用した経済力の強化という、一石二鳥の妙手である。
【 STAGE W 】 健康力
戦国時代随一の名医であった曲真瀬道三の著書(戦国武将の診察記録をまとめたもの)をもとに、彼らの健康度をチェックする。
織田信長(享年49歳)/激高しやすい性格から、かなりの高血圧であったと推定される。本能寺の変がなくてもあまり長生きはできなかったのではないかと思われ、ここでは低評価。
上杉謙信(享年49歳)/幼少のころ寺で修行をし、粗食が身についていた謙信だが、大の酒好きだった。うまい越後の酒に酔いしれ、命を縮めたようだ。
武田信玄(享年53歳)・豊臣秀吉(享年62歳)/ともによく行ったのが温泉。特に秀吉は有馬(兵庫県)の温泉が好きで、蒸し風呂によく入っていたらしい。
毛利元就(享年75歳)/若いころから体をよく鍛えていた。また冬には雪合戦を盛んに行い、体を動かしにくい季節にこうして筋力を鍛えた。
伊達政宗(享年70歳)/政宗には医学の心得があり、担当医に薬の処方を細かく指示するほどだった。
徳川家康(享年75歳)/なんと自ら薬を作っていた。方々から生薬を取り寄せ、自分で配合して薬を作っていたのだ。
北条早雲(享年88歳)/当時としては常識はずれの長寿。その秘訣は「早寝早起き」、好んで食べた「梅干」、そして「良薬」だった。早雲は民の信望を集め、民を暮らしやすくするために、食料と健康を守るための良薬が必要と考え、将軍家や天皇家も愛用した中国渡来の胃腸薬「ういらう」を領内で製造販売させた(もちろん自分も服用した)。終生民を慈しんだ早雲らしいエピソードである。
このランキングは高齢者、医療関係者、サラリーマンら50人の1人2票の投票で行われた。結果は1位家康、2位早雲。これは納得だが、それ以下は必ずしも長寿=健康力とはなっていない(たとえば酒で早死にした謙信が3位で、高齢になっても運動を心がけて75歳まで生きた元就が最下位になっており、これはおかしい)。ということで、3位以下の結果には個人的には納得していないので、ここには書かない。
【 STAGE X 】 外交力
戦わずして勝利を収める外交力。同盟、婚姻、内応者工作など、交渉力や知略が求められる。戦国時代の「知恵者」を、再び専門家3人がランキングする。
8位は上杉謙信。義を重んじ、策略を嫌った謙信は、外交上手とはいえない。7位は伊達政宗、6位は武田信玄。5位には、他国のお家騒動に乗じて領地を奪った手腕が評価された北条早雲が入った。4位は豊臣秀吉。晩年の朝鮮出兵の失敗が響き、高い評価は得られなかった。
3位:織田信長/流浪をかこっていた足利義昭を将軍に仕立て上げ、その権威を利用して上洛を果たす。また石山本願寺との戦いに苦慮すると、将軍義昭を裏で動かして正親町天皇に停戦の命令を下させる。伝統的な権威さえも道具として利用してしまう信長。常識にとらわれない「戦国の革命児」の面目躍如の外交手腕である。
2位:毛利元就/安芸の小領主に過ぎなかった元就だが、長男以外の子たちを吉川、小早川などのライバル領主の養子に送り込み、彼らが成人して家督を継ぐことで実質的な毛利の領地となった。こうして安芸一国の領主となったあと、最大のライバルであった尼子氏に対しては、「内部に裏切り者がいる」という偽手紙で内紛を起こさせ、それに乗じて尼子氏を滅ぼした。元就は武力とともに、知略外交の妙によって中国地方を統一したのである。
1位:徳川家康/離合集散と裏切りが茶飯事だった戦国時代にあって、21歳の時に信長と結んだ清州同盟を最後まで破らなかった(信長によって正室の築山殿と嫡男の信康を死に追いやることを強いられたが、それでも信長を裏切らなかった)。この誠実な姿勢が、信長のみならず天下の信用を得た。関ヶ原の戦いの前、石田三成が家康に味方した武将の妻子を人質に取った時、家康は「妻子を守るために三成方についてもかまわない」と言ったが、家康の誠実さを信頼していた武将たちは、徳川方として戦うことを誓った。愚直なまでの真面目外交が人心をつかみ、家康に天下をもたらしたのである。
【 STAGE Y 】 ファッション力
武将たちの甲冑から、彼らのファッションセンスと威厳、自己表現力を測る。
ここでも街中の50人による1人2票の投票で決めた。対象となったのは、日本滞在中の外国人、銀座の和服姿の女性たちと、ファッション専門学校の生徒たちだ。
1位はやはりというか、伊達政宗。「伊達者」の語源となったと言われる政宗、漆黒に統一した鎧兜に、キラリと光る大きな三日月。現代でも通用する抜群のファッションセンスである。
2位は織田信長。対象になったのは桶狭間の戦いの時の甲冑。このころはまだ身につけていた甲冑も正統派だが、それでも高評価を得た。しかし信長のファッションセンスがより際立ったのはこのあとで、西洋風の甲冑やマントを身にまとったりした。評価するならこのころを見るべきだと思うが、たぶんこのころの甲冑が現存していないのだろう。
3位以下はポイントが大きく離れているのでノーコメントとする。確かに戦国武将のファッションというと、信長と政宗の2人が真っ先に思い浮かぶ。この時代では他の追随を許さず、だろう。
【 STAGE Z 】 リーダー力
人の上に立つ者に求められるものの最たるものが、このリーダー力といえるだろう。ステージの最後にこれを持ってきたのは納得だ。名だたる戦国武将8人のリーダー力を検証する。
北条早雲:「慈」の人。領地に課する年貢を5割から4割に減らし、領内で疫病が発生すると京から薬を取り寄せて領民に配った。若き日に応仁の乱による民の苦しみを目の当たりにし、慈悲の心で領地を治めることの大切さを知ったのである。
上杉謙信:「義」の人。助けを求められれば他国へも出陣し、勇猛な戦いで窮地を救った。室町幕府から授かった関東管領の任務を忠実に全うし、関東に変事があればすぐに駆けつけて混乱を収めた。宿敵・武田信玄に塩を送ったというあまりにも有名なエピソードでも示されているように、頑なに義を貫いた人であった。
伊達政宗:「夢」の人。1611年、仙台は大地震に襲われ、大津波に飲まれて5,000人以上が犠牲になった。政宗は復興のために新田開発を進め、領民もこれに応えて土地はよみがえった。また遠く太平洋を渡り、メキシコからスペインへと船を送って海外との交易を目指した。大災害という逆境のさ中に政宗は壮大な夢を描き、民を導いたのである。
武田信玄:「和」の人。武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように、信玄は独断専行をせず、何事も家臣団との合議で決した。家臣の意見をよく聞き、人の和によって領国統治を進めたのである。
豊臣秀吉:「才」の人。主君・織田信長が討たれた本能寺の変の時、秀吉は備中・高松城攻めのさ中にあった。知らせを聞いた秀吉は敵と巧みに和睦し、すぐさま取って返した。有名な「中国大返し」である。200kmを10日で戻るという強行軍。兵たちは疲れ切っていたが、途中の姫路城で秀吉は、今の価値で50億円に及ぶ「恩賞の先払い」をして兵たちを奮い立たせ、山崎の合戦で明智光秀を破って主君の仇討ちを果たした。巧みな方策によって味方を次々に増やし、「人たらし」と呼ばれた秀吉の、面目躍如の戦いだった。
毛利元就:「智」の人。STAGEXの「外交力」で見たような、知略を駆使して戦わずして領地を広げる巧妙さ。そして戦さでも、厳島の戦いに見られるような、敵の大軍を狭い島での戦いにおびき寄せ、激しい風雨の夜に奇襲をかけ、4,000の兵で20,000の敵軍を破った。敵の裏をかき、意表を突く巧みな戦術で、元就は中国地方の覇者にのし上がったのだ。
徳川家康:「柔」の人。武田信玄との三方が原の戦いで家康は大敗北を喫するが、敗戦直後の自分のみじめな姿を絵師に描かせ(「しかめ像」として現存している)、生涯の戒めとした。その後の長篠の戦いなどを経て武田氏は滅亡するが、家康は有能な武田軍団を召し抱え、関ヶ原の戦いでも重用した(「関ヶ原合戦屏風」に、赤の甲冑の武田軍団が描かれている)。かつての敵でも、有能で忠誠心が厚ければ重く用いる。この家康の柔軟な人使いが人望を集め、天下取りへとつながっていったのである。
織田信長:「志」の人。戦国時代、いや日本の合戦史上最大の逆転劇と言われる桶狭間の戦い。2,000の織田軍が25,000の今川軍に勝利できたのは、合戦前の信長の一言にあった。「分捕りはせず、首は捨てておけ」。当時、兵にとっては恩賞を受ける証である敵の首をたくさん取ることが何よりの目的だった。しかし信長はこの戦いで、「狙うは今川義元の首ただ一つ!」と戦いのビジョンを明確にし、兵たちの意思を一点に集中させた。織田軍は全軍で義元の本陣5,000を突き、他の兵には目もくれず義元を目指し、見事にその首を挙げた。その後は「天下布武」のスローガンの下に家臣を率い、武力による天下制覇を目指して邁進した。信長の口癖「死のふは一定」(人は必ず死ぬ)。「生きているうちに何ができるか、残せるか」を常に胸に抱き、明確なビジョンを定め、強靭な意志でそれを実現していったのである。
このリーダー力は、スタジオのゲストと歴史ファン50人の一人2票の投票で決めた。結果は、
1位:信長 2位:家康・政宗 4位:秀吉 5位:早雲・謙信 7位:元就 8位:信玄
やはり強烈なリーダーシップで家臣団を率いた信長がトップ。「柔」の家康と「夢」の政宗が同率で2位。「慈」の早雲が5位に健闘しているのが目につく。
そして総合ポイントランキングは、
1位:織田信長 4,400点 2位:徳川家康 4,100点
3位:豊臣秀吉 3,600点 4位:毛利元就 3,300点
5位:伊達政宗 3,200点 6位:武田信玄 2,600点
7位:上杉謙信 2,500点 8位:北条早雲 2,100点
これはあくまでもごく一部の人たちの投票で決まったことであり、これで決定!というものではもちろんない。しかし一定の傾向は見えていると思う。
早雲が最下位になってしまったのは、彼の時代はまだ戦国の初期であり、戦いのスケールも小さく、経済基盤も大きくなかったことが響いている。しかし常に領民への慈悲の心を持っていた早雲は、個人的には大好きで尊敬に値する武将であり、「こんな数字で評価できる人じゃない」と思っている。
5位の政宗は、東北というこれも比較的戦いや経済基盤のスケールが小さいところを本拠地にしていたこと、そして彼が頭角を現したのは秀吉の小田原攻めのころで、すでに天下の趨勢が決まりつつあった時代であり、覇を競うまでには至らなかったことが響いた(のちに政宗は、「自分があと20年早く生まれていたら天下を取っていた」と家臣に述懐したという)。しかしファッションや海外交易、買米制など、彼のやることにはセンスの良さを感じさせる。一言で言えば「カッコいい!」のだ。自分のルーツが東北にあることもあり、大河ドラマ「独眼竜政宗」での渡辺謙さんのエネルギッシュな名演に心酔したことも相まって、政宗は私にとっては、戦国最大最高のヒーローなのである。
トップ3はやはりこの3人になった。まあ順当な結果だろう。この「戦国のビッグ3」については、改めてコメントすることはない。
それにしても面白い番組だった。いずれも名だたる武将だが、こうしていろいろな角度からチェックすると、彼らを総合的に見ることができ、それぞれの特徴や長所がよくわかる。NHKはこれまでも多くの優れた歴史番組を我々視聴者に提供してくれたが、この番組は戦国時代に関する歴史番組の一つの集大成と言っていいだろう。
2010年01月11日
史実(ノンフィクション)と脚色(フィクション)のバランス
NHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。主人公・坂本龍馬は、これまでも大河ドラマの中で多くの俳優が演じてきましたが、今回龍馬を演じるのは歌手の福山雅治さん。これまでの2回を観た限りでは、のちに「幕末を駆け抜けた風雲児」と呼ばれたような骨太なキャラではなく、争いを好まない、心優しい青年というイメージです。これは福山さん本人のルックスやキャラの反映もあるとは思いますが、ちょっとこれまでの龍馬とは違う描かれ方で、それがかえって面白いと思いました。けっこうユニークで今までにない龍馬像が見られるかもしれません。なかなか今後の展開が楽しみになってきましたね。
(ナレーションが香川照之さん扮する岩崎弥太郎というのも、これまでにないユニークな視点で面白いですね。「岩崎弥太郎の目線で見た坂本龍馬」これは楽しみです)
ところで、こういう歴史上の人物を描いたドラマを観るたびに思うことがあります。
「このドラマのどこが史実(ノンフィクション)で、どこが脚色(フィクション)なんだろう?」
たとえば映画「小説吉田学校」では、吉田茂を中心とした敗戦後の政治家たちの闘いが描かれていますが、現代との時代の間隔が比較的短く、映像も資料も数多く残っていて、その人物にリアルタイムで接していた人もいるであろうこの頃でさえ(麻生太郎・前首相は吉田茂の孫、鳩山由紀夫・現首相はその政敵・鳩山一郎の孫です)、登場人物の一挙手一投足を正確に記録していたわけではありませんから、映画の中の細かいセリフや立ち居振る舞いには、当然ある程度の脚色が入っているでしょう。
まして映像はおろか写真がわずかに残っているだけで、残存する資料もより少ない幕末の動乱期は、そこからストーリーやキャラクターを膨らませて描くことになります。司馬遼太郎さんが「竜馬がゆく」を執筆する際、神田の古書店街から関連する書物をことごとく買い上げた(総額なんと1千万円!)のは有名な話ですが、それだけ綿密に調べ上げても、ストーリーをよどみなく展開させるためには、史実と史実とをつなぎ合わせる脚色という「接着剤」が必要になってきます。
さらに大河ドラマや他の歴史番組で描かれることの多い戦国武将にいたっては、もちろん写真はないですし、本人を物語る資料もさらに少ないですから、「脚色度」もさらに大きくなってきます。たとえば、織田信長の正室・濃姫(帰蝶・斎藤道三の娘)は、大河ドラマ「国盗り物語」では信長との夫婦仲はよく、かの本能寺の変では信長とともに戦って討ち死にしたと描かれていますが、その後の大河ドラマ「信長」や津本陽さんの小説「下天は夢か」では、2人は道三の死後疎遠になり、ほとんど離縁状態だったように描かれています。これはどちらが史実なのか私にはわかりませんが、脚色によってはこのような大きな違いが生まれることもあるのです。
このように、描かれる時代が遡れば遡るほど、史実が少なくなって脚色が増えるのが歴史小説や歴史ドラマの宿命です。そこで重要になるのが、「史実と史実を、自然で無理のない脚色で『接着』すること」「ストーリー展開や登場人物の性格からいって不自然な脚色にならないようにすること」だと思います。描き手としては、歴史に名を残すヒーローやヒロインをカッコよく描きたいのはやまやまでしょうが、あまりに超人的に描いてしまうと嘘っぽくなってしまいますし、キャラに合わないことをやらせるとイメージを壊してしまいます。
映画「ランボー」で主人公がただ1人で敵の包囲網を打ち破ったり、宇宙戦艦ヤマトがただ1艦で強大な軍事力を持つ「ガミラス大帝星」を滅ぼしたりするのは、あれがフィクションだから観る方も受け入れるのであって、現実にはありえない話です(たとえばヤマトだったら、「バラン星の人工太陽につぶされて終わり」となるのが普通でしょう。そうならなかったのは、ドメル司令に作戦の中止を命じたデスラー総統がアホだったということです 笑)。
「史実にはあくまで忠実で、かつ登場人物を魅力的に見せる無理のない脚色を施す」。このノンフィクションとフィクションをバランスよく配合するのはとても難しいことだと思いますが、ここが小説家や脚本家、監督の腕の見せどころでしょう。
この「ノンフィクションとフィクションのバランスよい配合」の好例は、昨年の暮れに完結した漫画家・かわぐちかいじさんの大作「ジパング」です。物語は、日本の海上自衛隊の最新鋭イージス艦「みらい」が太平洋上でタイムスリップし、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の海域に現れるという、かなり「ありえない」設定から始まります。太平洋戦争の真っ只中に置かれた「みらい」とその乗組員たちは、戦争を早期に終結させるために多方面に働きかけ、戦争の流れは史実とは違う方向に動き始めます。
日本人の多くの人が知っているであろう太平洋戦争を史実からずらして描くというのは、かなり冒険的で勇気のいることです(ひとつ間違うと、多方面からの非難の嵐が起こりかねません)。しかしこの「ジパング」での史実からのずれ方には、ほとんど無理が感じられません。これは、かわぐち氏をはじめとする製作スタッフが、当時の世界情勢や日米の状況、双方の戦略・戦術や保有戦力のデータ、そして登場する実在の人物を詳細に把握しているため、描かれ方にリアリティがあるからです。これが、当時からすると「未来兵器」を満載した「みらい」が、米軍に対してこの兵器を駆使して次々に打ち破り、太平洋戦争は日本の大勝に終わったなんてストーリーだったら、あまりにも荒唐無稽で読むに耐えない話になってしまいます。「ジパング」の面白さ・すごさの最大のポイントは、史実にしっかりと根ざした上でストーリーが展開しているゆえの「リアリティ」にあるのです。
始まったばかりの「龍馬伝」。主人公が超有名人で絶大な人気を誇る人物なだけに、注目度も高いでしょう。史実の上にどんな演出を施すのか、どんな龍馬を見せてくれるのか。描かれる「ノンフィクションとフィクションのバランス」に注目したいですね。
(ナレーションが香川照之さん扮する岩崎弥太郎というのも、これまでにないユニークな視点で面白いですね。「岩崎弥太郎の目線で見た坂本龍馬」これは楽しみです)
ところで、こういう歴史上の人物を描いたドラマを観るたびに思うことがあります。
「このドラマのどこが史実(ノンフィクション)で、どこが脚色(フィクション)なんだろう?」
たとえば映画「小説吉田学校」では、吉田茂を中心とした敗戦後の政治家たちの闘いが描かれていますが、現代との時代の間隔が比較的短く、映像も資料も数多く残っていて、その人物にリアルタイムで接していた人もいるであろうこの頃でさえ(麻生太郎・前首相は吉田茂の孫、鳩山由紀夫・現首相はその政敵・鳩山一郎の孫です)、登場人物の一挙手一投足を正確に記録していたわけではありませんから、映画の中の細かいセリフや立ち居振る舞いには、当然ある程度の脚色が入っているでしょう。
まして映像はおろか写真がわずかに残っているだけで、残存する資料もより少ない幕末の動乱期は、そこからストーリーやキャラクターを膨らませて描くことになります。司馬遼太郎さんが「竜馬がゆく」を執筆する際、神田の古書店街から関連する書物をことごとく買い上げた(総額なんと1千万円!)のは有名な話ですが、それだけ綿密に調べ上げても、ストーリーをよどみなく展開させるためには、史実と史実とをつなぎ合わせる脚色という「接着剤」が必要になってきます。
さらに大河ドラマや他の歴史番組で描かれることの多い戦国武将にいたっては、もちろん写真はないですし、本人を物語る資料もさらに少ないですから、「脚色度」もさらに大きくなってきます。たとえば、織田信長の正室・濃姫(帰蝶・斎藤道三の娘)は、大河ドラマ「国盗り物語」では信長との夫婦仲はよく、かの本能寺の変では信長とともに戦って討ち死にしたと描かれていますが、その後の大河ドラマ「信長」や津本陽さんの小説「下天は夢か」では、2人は道三の死後疎遠になり、ほとんど離縁状態だったように描かれています。これはどちらが史実なのか私にはわかりませんが、脚色によってはこのような大きな違いが生まれることもあるのです。
このように、描かれる時代が遡れば遡るほど、史実が少なくなって脚色が増えるのが歴史小説や歴史ドラマの宿命です。そこで重要になるのが、「史実と史実を、自然で無理のない脚色で『接着』すること」「ストーリー展開や登場人物の性格からいって不自然な脚色にならないようにすること」だと思います。描き手としては、歴史に名を残すヒーローやヒロインをカッコよく描きたいのはやまやまでしょうが、あまりに超人的に描いてしまうと嘘っぽくなってしまいますし、キャラに合わないことをやらせるとイメージを壊してしまいます。
映画「ランボー」で主人公がただ1人で敵の包囲網を打ち破ったり、宇宙戦艦ヤマトがただ1艦で強大な軍事力を持つ「ガミラス大帝星」を滅ぼしたりするのは、あれがフィクションだから観る方も受け入れるのであって、現実にはありえない話です(たとえばヤマトだったら、「バラン星の人工太陽につぶされて終わり」となるのが普通でしょう。そうならなかったのは、ドメル司令に作戦の中止を命じたデスラー総統がアホだったということです 笑)。
「史実にはあくまで忠実で、かつ登場人物を魅力的に見せる無理のない脚色を施す」。このノンフィクションとフィクションをバランスよく配合するのはとても難しいことだと思いますが、ここが小説家や脚本家、監督の腕の見せどころでしょう。
この「ノンフィクションとフィクションのバランスよい配合」の好例は、昨年の暮れに完結した漫画家・かわぐちかいじさんの大作「ジパング」です。物語は、日本の海上自衛隊の最新鋭イージス艦「みらい」が太平洋上でタイムスリップし、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の海域に現れるという、かなり「ありえない」設定から始まります。太平洋戦争の真っ只中に置かれた「みらい」とその乗組員たちは、戦争を早期に終結させるために多方面に働きかけ、戦争の流れは史実とは違う方向に動き始めます。
日本人の多くの人が知っているであろう太平洋戦争を史実からずらして描くというのは、かなり冒険的で勇気のいることです(ひとつ間違うと、多方面からの非難の嵐が起こりかねません)。しかしこの「ジパング」での史実からのずれ方には、ほとんど無理が感じられません。これは、かわぐち氏をはじめとする製作スタッフが、当時の世界情勢や日米の状況、双方の戦略・戦術や保有戦力のデータ、そして登場する実在の人物を詳細に把握しているため、描かれ方にリアリティがあるからです。これが、当時からすると「未来兵器」を満載した「みらい」が、米軍に対してこの兵器を駆使して次々に打ち破り、太平洋戦争は日本の大勝に終わったなんてストーリーだったら、あまりにも荒唐無稽で読むに耐えない話になってしまいます。「ジパング」の面白さ・すごさの最大のポイントは、史実にしっかりと根ざした上でストーリーが展開しているゆえの「リアリティ」にあるのです。
始まったばかりの「龍馬伝」。主人公が超有名人で絶大な人気を誇る人物なだけに、注目度も高いでしょう。史実の上にどんな演出を施すのか、どんな龍馬を見せてくれるのか。描かれる「ノンフィクションとフィクションのバランス」に注目したいですね。