2016年01月30日

歴史上の人物で、あなたが好きな人は? 上司にしたくない人は? 会いたい人は?

NHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」のホームページで面白いアンケートをやっていたので、下記のように答えた。(答えは選択肢だけ。各問いには共通の選択肢が設けてある)


・好きな人物/伊達政宗我がルーツ・東北の最大のヒーロー。大きな三日月の前立、漆黒の鎧兜。「伊達者」の語源となった政宗、一人だけ挙げよといわれるとこの人しかない。

※ 本当は政宗のブレインだった片倉小十郎が一番好きなのだが、選択肢になかったのでその主君たる政宗にした。小十郎の、常に大局を見据え、冷静沈着に事を処す姿勢にはいたく感銘する。


・嫌いな人物/平清盛武家の棟梁のくせに公家の真似をして、天皇家の外戚になって権力をふるった。大嫌いではないが、この「武士から逸脱した軟弱な所業」が気に入らない。

・上司にしたい/吉田松陰生徒たちと同じ目線に立ち、「ともに学ぼう」という姿勢がすばらしい。先見の明があり、大きなビジョンと夢を描かせてくれるスケールの大きさが魅力だ。

・上司にしたくない/織田信長こんな人の下についたら命がいくつあっても足りない。一つ目標を達成してもさらに高いハードルを設定されるし、すぐキレるので、気の休まる暇がない。こんな上司は絶対に持ちたくないね。

・部下にしたい/豊臣秀吉とにかく機転が利いてフットワークが軽いので、使いやすいことこの上ない。元の身分が低いのでよけいなプライドを持っていないのもいい。しかも主君には忠実。最高の部下だろう。

・部下にしたくない/源義経:能力は高いのだが、独断専行が多いのが困る。この人は上下関係の枠の中ではなく、遊撃隊として戦場で自由に働かせるのが一番いいだろう。

・妻にしたい/おね(豊臣秀吉正室):夫を大らかな愛情で包むよき女性、というイメージが強い。しかもただ控えめなだけではなく、時には夫に対して的確な進言を行うこともあった。「かしこく芯が強い」理想の妻ではないか。

・妻にしたくない/清少納言:知性と教養にあふれているのはいいのだが、あふれすぎて疲れそうだ。常に高尚でいなければならないから、気を緩められない。こういう人がパートナーでは疲れる。

・一緒に酒を飲みたい/勝海舟幕府のお役人でありながら気さくな人柄で、いろいろと面白い話を聞かせてくれそうだ。この人の話はスケールが大きく、幕府や日本の枠を超えるだろう。楽しそうだなあ。

・一緒に酒を飲みたくない/織田信長「無礼講」を鵜呑みにしたらたちまちに成敗されそうだ。こういう人の前では緊張して酔えないかも。酒もおいしくないだろう。

・この人に会いたい/宮本武蔵対外試合全勝無敗の、孤高の天才剣士。どういう風貌、どんな雰囲気の人なのか。その心の内もじっくり聞いてみたいものだ。

・取り上げてほしい世界史の人物/

男性1人:シーザー(カエサル)古代ローマ帝国の実質的な最高権力者。征服した地を高圧的にではなく、その文化や社会を尊重して宥和政策を取った。しかし暗殺されたのは、内には厳しく強権的な人だったのか? そこが知りたい。

女性1人:エカテリーナ女帝ロシア帝国に栄華をもたらした女傑。大変な男好きだったらしいが、それよりもその政治手腕を詳しく知りたい。


さて、皆さんならだれを選びますか? あなたも番組HP(https://www.nhk.or.jp/historia/enquete/)から答えてみては?

※ このアンケート結果は、3月16日放送のヒストリアで発表されます。



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2013年01月11日

戦国時代最強の「覇王」は誰だ?

NHKで3日に放送された「覇王伝説〜最強の戦国武将は誰だ?」は、歴史ファンとしては興味津々の番組だった。名だたる戦国武将の中から視聴者アンケートと専門家の意見をもとに8名をノミネートし、7つのステージを定め、それぞれについてランキングして採点し、その総合得点で戦国最強の「覇王」を決めようというものだ。

ノミネートされたのは、北条早雲・毛利元就・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗の8人。いずれも一時代を築き、北条早雲以外の7人は、NHKの大河ドラマでも主人公になったことがある(特に信長・秀吉・家康の「ビッグ3」は、何度登場したか、何人の役者が演じたか数えきれない)、日本が世界に誇ると言っていい名将だ。

この「戦国の英傑」8人を、7つのステージでランキングし、評点していく。このステージの設定も面白いが、それぞれのステージで示されるデータ・数字やさまざまなエピソードもあまり知られていなかったものが多く、これも興味津々だった。



【 STAGE T 】 兵力

どれだけの兵力を動員できたかでランキングする。ここはやはり天下人となった家康(450,000人)・秀吉(400,000人)が強く、その一歩手前まで行った信長(200,000人)が続く。このビッグ3がケタ違いに多く、4位以下(毛利元就35,000人、武田信玄33,000人、伊達政宗28,000人、上杉謙信25,000人、北条早雲6,000人)を大きく引き離している(早雲の時代はまだ戦国の草創期で、さほどの大軍勢を率いた戦いはなかった)。

このビッグ3の大兵力の秘密は、専門武士団の養成にあった。戦国時代中期までは兵は農民兵が主だったが、彼らは農作業の繁忙期には徴用しにくい。そこで比較的動きやすい農家の二男・三男らを金で雇い、訓練を施し、軍装を整えて、専門の武士軍団を造り上げたのだ。これは常時徴用できること(=兵力の増強)と、戦さのプロとして鍛え上げることができること(=兵のレベルアップ)、この質量両面のメリットがあった。


【 STAGE U 】 勝率

生涯の戦さのトータルで何勝何敗だったかを示す。
どうやってこれを数えたのかと思うが、かなり詳細な数字が出てきた。ランキング順で言うと、

  1位:武田信玄/94.3%(50勝3敗)
  2位:毛利元就/90.2%(37勝4敗)
  3位:織田信長/89.4%(118勝14敗)
  4位:上杉謙信/87.8%(43勝6敗)
  5位:伊達政宗/87.5%(14勝2敗)
  6位:豊臣秀吉/87.1%(121勝18敗)
  7位:徳川家康/84.8%(67勝12敗)
  8位:北条早雲/81.3%(13勝3敗)


信玄勝率トップの秘密は、一つには「風林火山」のキャッチフレーズにもある通りの、騎馬軍団を率いての機を見るに敏なる疾風怒濤の戦いぶり。そしてもう一つは、「負けない戦さ」にあった。引き分けが合計22回。あまりに有名な謙信との川中島の戦いは5度にわたって行われたが、結局決着はつかなかった。知略を駆使しても勝つまでには至らないと思った時は、潔く兵を引いて引き分けに持ち込む。この堅実で冷静な、兵を大事にする信玄の戦いが人心をつかみ、武田を最強軍団にのし上げていったのだ。


【 STAGE V 】 経済力


鉄砲(火縄銃)1丁が約70万円、足軽1人の1か月当たりの人件費が20万円。総勢16万人が戦った「天下分け目」関ヶ原の戦いにかかったコストは、一説には500億円!と言われている。武将の力の源となる経済力を、3人の専門家(小和田哲男・静岡大学名誉教授/本郷和人・東京大学史料編纂所教授/加来耕三・作家)が検証する。

ポイントは「石高」「商業・交易」「ビジネスセンス」の3点。領地の大きさや豊かさだけではない、トータルな経済センスが問われる。

8位:武田信玄/甲斐・信濃という山あいの豊かとはいえない地が領地だったことに加え、かつては豊かだった甲斐の金山を無計画に掘り進めたために、信玄の時代にはついに鉱脈が枯れ始めた。これでは経済センスがいいとは言いがたい。

7位:北条早雲/領地は伊豆・相模の2国のみであり、石高の絶対量が他の7人と比べると少ない。しかしこれは早雲の時代のことであり、その後北条氏は領地拡張を続け、ついには小田原城を本拠に関東一円を収めるに至った。そのさきがけとなった早雲はやはり偉大だったと言わねばならない。

6位:徳川家康天下人が意外な低評価。秀吉の時代までは銭本位制だったものを、石高(米)本位制にした。これが経済発展の流れに逆行する保守的なやり方とみなされた。

5位:伊達政宗年貢を納めたあとの余った米を農民から買い上げ(買米制)、それを大消費地である江戸で売りさばいて巨利を得た。領地の農民は現金収入を得、領主たる伊達家も大いに潤った。これは見事な”win-win”政策である。

4位:毛利元就日本有数の銀山であった石見銀山を激しい争奪戦の末に手中にした手腕には高い評価。しかし山陽道という交通の要衝を手にしながら、さほど活性化できなかった点でマイナス評価され、ベスト3入りを逃した。

3位:上杉謙信/もともと豊かな穀倉地帯であった越後。これに加え越後は、当時の日本人の主要な衣服であった麻の原材料であるアオソが多く自生する土地でもあった。これを謙信は専売制とし、栽培と加工を奨励した。こうして麻布の生産を盛んにし、これを京都などの大都市で売った。肌触りのいい越後の麻は貴族から庶民にまで大評判になり、今の価格で年間40億円にも及ぶ巨大な利益をもたらした。

2位:織田信長まず注目されたのは道路行政。それまでは敵からの攻撃を防ぐために幅2mほどで曲がりくねっていた道を、幅4m・長さ30qにも渡る街道に造り直した。また領内に当時としては画期的な楽市・楽座(場所代や売上税を免除)を設置し、多くの商人を引き寄せた。こうして物や人の行き来を容易にし、マーケットが広がったことで、商業が飛躍的に発展した。ただこれでは敵の攻撃も受けやすくなるが、信長はこの道路に通行税を設け、その税収入で武士を雇い、街道沿いに配置して警護に当たらせた。

1位:豊臣秀吉天下統一ののち、全国の穀倉地帯や金山を太閤蔵入地(直轄地)にし、本拠地である大坂と船で結んで交易ルートを作り、現地での生産品を売値の高い大坂で売りさばいて巨利を得た。流通ネットワークの構築と大マーケットを利用した経済力の強化という、一石二鳥の妙手である。


【 STAGE W 】 健康力

戦国時代随一の名医であった曲真瀬道三の著書(戦国武将の診察記録をまとめたもの)をもとに、彼らの健康度をチェックする。


織田信長(享年49歳)激高しやすい性格から、かなりの高血圧であったと推定される。本能寺の変がなくてもあまり長生きはできなかったのではないかと思われ、ここでは低評価。

上杉謙信(享年49歳)/幼少のころ寺で修行をし、粗食が身についていた謙信だが、大の酒好きだった。うまい越後の酒に酔いしれ、命を縮めたようだ。

武田信玄(享年53歳)・豊臣秀吉(享年62歳)ともによく行ったのが温泉。特に秀吉は有馬(兵庫県)の温泉が好きで、蒸し風呂によく入っていたらしい。

毛利元就(享年75歳)若いころから体をよく鍛えていた。また冬には雪合戦を盛んに行い、体を動かしにくい季節にこうして筋力を鍛えた。

伊達政宗(享年70歳)政宗には医学の心得があり、担当医に薬の処方を細かく指示するほどだった。

徳川家康(享年75歳)なんと自ら薬を作っていた。方々から生薬を取り寄せ、自分で配合して薬を作っていたのだ。

北条早雲(享年88歳)当時としては常識はずれの長寿。その秘訣は「早寝早起き」、好んで食べた「梅干」、そして「良薬」だった。早雲は民の信望を集め、民を暮らしやすくするために、食料と健康を守るための良薬が必要と考え、将軍家や天皇家も愛用した中国渡来の胃腸薬「ういらう」を領内で製造販売させた(もちろん自分も服用した)。終生民を慈しんだ早雲らしいエピソードである。

このランキングは高齢者、医療関係者、サラリーマンら50人の1人2票の投票で行われた。結果は1位家康、2位早雲。これは納得だが、それ以下は必ずしも長寿=健康力とはなっていない(たとえば酒で早死にした謙信が3位で、高齢になっても運動を心がけて75歳まで生きた元就が最下位になっており、これはおかしい)。ということで、3位以下の結果には個人的には納得していないので、ここには書かない。


【 STAGE X 】 外交力

戦わずして勝利を収める外交力。同盟、婚姻、内応者工作など、交渉力や知略が求められる。戦国時代の「知恵者」を、再び専門家3人がランキングする。


8位は上杉謙信。義を重んじ、策略を嫌った謙信は、外交上手とはいえない。7位は伊達政宗、6位は武田信玄。5位には、他国のお家騒動に乗じて領地を奪った手腕が評価された北条早雲が入った。4位は豊臣秀吉。晩年の朝鮮出兵の失敗が響き、高い評価は得られなかった。

3位:織田信長/流浪をかこっていた足利義昭を将軍に仕立て上げ、その権威を利用して上洛を果たす。また石山本願寺との戦いに苦慮すると、将軍義昭を裏で動かして正親町天皇に停戦の命令を下させる。伝統的な権威さえも道具として利用してしまう信長。常識にとらわれない「戦国の革命児」の面目躍如の外交手腕である。

2位:毛利元就/安芸の小領主に過ぎなかった元就だが、長男以外の子たちを吉川、小早川などのライバル領主の養子に送り込み、彼らが成人して家督を継ぐことで実質的な毛利の領地となった。こうして安芸一国の領主となったあと、最大のライバルであった尼子氏に対しては、「内部に裏切り者がいる」という偽手紙で内紛を起こさせ、それに乗じて尼子氏を滅ぼした。元就は武力とともに、知略外交の妙によって中国地方を統一したのである。

1位:徳川家康離合集散と裏切りが茶飯事だった戦国時代にあって、21歳の時に信長と結んだ清州同盟を最後まで破らなかった(信長によって正室の築山殿と嫡男の信康を死に追いやることを強いられたが、それでも信長を裏切らなかった)。この誠実な姿勢が、信長のみならず天下の信用を得た。関ヶ原の戦いの前、石田三成が家康に味方した武将の妻子を人質に取った時、家康は「妻子を守るために三成方についてもかまわない」と言ったが、家康の誠実さを信頼していた武将たちは、徳川方として戦うことを誓った。愚直なまでの真面目外交が人心をつかみ、家康に天下をもたらしたのである。


【 STAGE Y 】 ファッション力

武将たちの甲冑から、彼らのファッションセンスと威厳、自己表現力を測る。


ここでも街中の50人による1人2票の投票で決めた。対象となったのは、日本滞在中の外国人、銀座の和服姿の女性たちと、ファッション専門学校の生徒たちだ。

1位はやはりというか、伊達政宗。「伊達者」の語源となったと言われる政宗、漆黒に統一した鎧兜に、キラリと光る大きな三日月。現代でも通用する抜群のファッションセンスである。

2位は織田信長。対象になったのは桶狭間の戦いの時の甲冑。このころはまだ身につけていた甲冑も正統派だが、それでも高評価を得た。しかし信長のファッションセンスがより際立ったのはこのあとで、西洋風の甲冑やマントを身にまとったりした。評価するならこのころを見るべきだと思うが、たぶんこのころの甲冑が現存していないのだろう。

3位以下はポイントが大きく離れているのでノーコメントとする。確かに戦国武将のファッションというと、信長と政宗の2人が真っ先に思い浮かぶ。この時代では他の追随を許さず、だろう。


【 STAGE Z 】 リーダー力

人の上に立つ者に求められるものの最たるものが、このリーダー力といえるだろう。ステージの最後にこれを持ってきたのは納得だ。名だたる戦国武将8人のリーダー力を検証する。


北条早雲「慈」の人。領地に課する年貢を5割から4割に減らし、領内で疫病が発生すると京から薬を取り寄せて領民に配った。若き日に応仁の乱による民の苦しみを目の当たりにし、慈悲の心で領地を治めることの大切さを知ったのである。

上杉謙信「義」の人。助けを求められれば他国へも出陣し、勇猛な戦いで窮地を救った。室町幕府から授かった関東管領の任務を忠実に全うし、関東に変事があればすぐに駆けつけて混乱を収めた。宿敵・武田信玄に塩を送ったというあまりにも有名なエピソードでも示されているように、頑なに義を貫いた人であった。

伊達政宗「夢」の人。1611年、仙台は大地震に襲われ、大津波に飲まれて5,000人以上が犠牲になった。政宗は復興のために新田開発を進め、領民もこれに応えて土地はよみがえった。また遠く太平洋を渡り、メキシコからスペインへと船を送って海外との交易を目指した。大災害という逆境のさ中に政宗は壮大な夢を描き、民を導いたのである。

武田信玄「和」の人。武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように、信玄は独断専行をせず、何事も家臣団との合議で決した。家臣の意見をよく聞き、人の和によって領国統治を進めたのである。

豊臣秀吉「才」の人。主君・織田信長が討たれた本能寺の変の時、秀吉は備中・高松城攻めのさ中にあった。知らせを聞いた秀吉は敵と巧みに和睦し、すぐさま取って返した。有名な「中国大返し」である。200kmを10日で戻るという強行軍。兵たちは疲れ切っていたが、途中の姫路城で秀吉は、今の価値で50億円に及ぶ「恩賞の先払い」をして兵たちを奮い立たせ、山崎の合戦で明智光秀を破って主君の仇討ちを果たした。巧みな方策によって味方を次々に増やし、「人たらし」と呼ばれた秀吉の、面目躍如の戦いだった。

毛利元就「智」の人。STAGEXの「外交力」で見たような、知略を駆使して戦わずして領地を広げる巧妙さ。そして戦さでも、厳島の戦いに見られるような、敵の大軍を狭い島での戦いにおびき寄せ、激しい風雨の夜に奇襲をかけ、4,000の兵で20,000の敵軍を破った。敵の裏をかき、意表を突く巧みな戦術で、元就は中国地方の覇者にのし上がったのだ。

徳川家康「柔」の人。武田信玄との三方が原の戦いで家康は大敗北を喫するが、敗戦直後の自分のみじめな姿を絵師に描かせ(「しかめ像」として現存している)、生涯の戒めとした。その後の長篠の戦いなどを経て武田氏は滅亡するが、家康は有能な武田軍団を召し抱え、関ヶ原の戦いでも重用した(「関ヶ原合戦屏風」に、赤の甲冑の武田軍団が描かれている)。かつての敵でも、有能で忠誠心が厚ければ重く用いる。この家康の柔軟な人使いが人望を集め、天下取りへとつながっていったのである。

織田信長「志」の人。戦国時代、いや日本の合戦史上最大の逆転劇と言われる桶狭間の戦い。2,000の織田軍が25,000の今川軍に勝利できたのは、合戦前の信長の一言にあった。「分捕りはせず、首は捨てておけ」。当時、兵にとっては恩賞を受ける証である敵の首をたくさん取ることが何よりの目的だった。しかし信長はこの戦いで、「狙うは今川義元の首ただ一つ!」と戦いのビジョンを明確にし、兵たちの意思を一点に集中させた。織田軍は全軍で義元の本陣5,000を突き、他の兵には目もくれず義元を目指し、見事にその首を挙げた。その後は「天下布武」のスローガンの下に家臣を率い、武力による天下制覇を目指して邁進した。信長の口癖「死のふは一定」(人は必ず死ぬ)。「生きているうちに何ができるか、残せるか」を常に胸に抱き、明確なビジョンを定め、強靭な意志でそれを実現していったのである。

このリーダー力は、スタジオのゲストと歴史ファン50人の一人2票の投票で決めた。結果は、

1位:信長 2位:家康・政宗 4位:秀吉 5位:早雲・謙信 7位:元就 8位:信玄

やはり強烈なリーダーシップで家臣団を率いた信長がトップ。「柔」の家康と「夢」の政宗が同率で2位。「慈」の早雲が5位に健闘しているのが目につく。



そして総合ポイントランキングは、

  1位:織田信長 4,400点   2位:徳川家康 4,100点
  3位:豊臣秀吉 3,600点   4位:毛利元就 3,300点
  5位:伊達政宗 3,200点   6位:武田信玄 2,600点
  7位:上杉謙信 2,500点   8位:北条早雲 2,100点


これはあくまでもごく一部の人たちの投票で決まったことであり、これで決定!というものではもちろんない。しかし一定の傾向は見えていると思う。


早雲が最下位になってしまったのは、彼の時代はまだ戦国の初期であり、戦いのスケールも小さく、経済基盤も大きくなかったことが響いている。しかし常に領民への慈悲の心を持っていた早雲は、個人的には大好きで尊敬に値する武将であり、「こんな数字で評価できる人じゃない」と思っている。

5位の政宗は、東北というこれも比較的戦いや経済基盤のスケールが小さいところを本拠地にしていたこと、そして彼が頭角を現したのは秀吉の小田原攻めのころで、すでに天下の趨勢が決まりつつあった時代であり、覇を競うまでには至らなかったことが響いた(のちに政宗は、「自分があと20年早く生まれていたら天下を取っていた」と家臣に述懐したという)。しかしファッションや海外交易、買米制など、彼のやることにはセンスの良さを感じさせる。一言で言えば「カッコいい!」のだ。自分のルーツが東北にあることもあり、大河ドラマ「独眼竜政宗」での渡辺謙さんのエネルギッシュな名演に心酔したことも相まって、政宗は私にとっては、戦国最大最高のヒーローなのである。

トップ3はやはりこの3人になった。まあ順当な結果だろう。この「戦国のビッグ3」については、改めてコメントすることはない。


それにしても面白い番組だった。いずれも名だたる武将だが、こうしていろいろな角度からチェックすると、彼らを総合的に見ることができ、それぞれの特徴や長所がよくわかる。NHKはこれまでも多くの優れた歴史番組を我々視聴者に提供してくれたが、この番組は戦国時代に関する歴史番組の一つの集大成と言っていいだろう。

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2010年01月11日

史実(ノンフィクション)と脚色(フィクション)のバランス

NHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。主人公・坂本龍馬は、これまでも大河ドラマの中で多くの俳優が演じてきましたが、今回龍馬を演じるのは歌手の福山雅治さん。これまでの2回を観た限りでは、のちに「幕末を駆け抜けた風雲児」と呼ばれたような骨太なキャラではなく、争いを好まない、心優しい青年というイメージです。これは福山さん本人のルックスやキャラの反映もあるとは思いますが、ちょっとこれまでの龍馬とは違う描かれ方で、それがかえって面白いと思いました。けっこうユニークで今までにない龍馬像が見られるかもしれません。なかなか今後の展開が楽しみになってきましたね。

(ナレーションが香川照之さん扮する岩崎弥太郎というのも、これまでにないユニークな視点で面白いですね。「岩崎弥太郎の目線で見た坂本龍馬」これは楽しみです)

ところで、こういう歴史上の人物を描いたドラマを観るたびに思うことがあります。

「このドラマのどこが史実(ノンフィクション)で、どこが脚色(フィクション)なんだろう?」

たとえば映画「小説吉田学校」では、吉田茂を中心とした敗戦後の政治家たちの闘いが描かれていますが、現代との時代の間隔が比較的短く、映像も資料も数多く残っていて、その人物にリアルタイムで接していた人もいるであろうこの頃でさえ(麻生太郎・前首相は吉田茂の孫、鳩山由紀夫・現首相はその政敵・鳩山一郎の孫です)、登場人物の一挙手一投足を正確に記録していたわけではありませんから、映画の中の細かいセリフや立ち居振る舞いには、当然ある程度の脚色が入っているでしょう。

まして映像はおろか写真がわずかに残っているだけで、残存する資料もより少ない幕末の動乱期は、そこからストーリーやキャラクターを膨らませて描くことになります。司馬遼太郎さんが「竜馬がゆく」を執筆する際、神田の古書店街から関連する書物をことごとく買い上げた(総額なんと1千万円!)のは有名な話ですが、それだけ綿密に調べ上げても、ストーリーをよどみなく展開させるためには、史実と史実とをつなぎ合わせる脚色という「接着剤」が必要になってきます。

さらに大河ドラマや他の歴史番組で描かれることの多い戦国武将にいたっては、もちろん写真はないですし、本人を物語る資料もさらに少ないですから、「脚色度」もさらに大きくなってきます。たとえば、織田信長の正室・濃姫(帰蝶・斎藤道三の娘)は、大河ドラマ「国盗り物語」では信長との夫婦仲はよく、かの本能寺の変では信長とともに戦って討ち死にしたと描かれていますが、その後の大河ドラマ「信長」や津本陽さんの小説「下天は夢か」では、2人は道三の死後疎遠になり、ほとんど離縁状態だったように描かれています。これはどちらが史実なのか私にはわかりませんが、脚色によってはこのような大きな違いが生まれることもあるのです。

このように、描かれる時代が遡れば遡るほど、史実が少なくなって脚色が増えるのが歴史小説や歴史ドラマの宿命です。そこで重要になるのが、「史実と史実を、自然で無理のない脚色で『接着』すること」「ストーリー展開や登場人物の性格からいって不自然な脚色にならないようにすること」だと思います。描き手としては、歴史に名を残すヒーローやヒロインをカッコよく描きたいのはやまやまでしょうが、あまりに超人的に描いてしまうと嘘っぽくなってしまいますし、キャラに合わないことをやらせるとイメージを壊してしまいます。

映画「ランボー」で主人公がただ1人で敵の包囲網を打ち破ったり、宇宙戦艦ヤマトがただ1艦で強大な軍事力を持つ「ガミラス大帝星」を滅ぼしたりするのは、あれがフィクションだから観る方も受け入れるのであって、現実にはありえない話です(たとえばヤマトだったら、「バラン星の人工太陽につぶされて終わり」となるのが普通でしょう。そうならなかったのは、ドメル司令に作戦の中止を命じたデスラー総統がアホだったということです 笑)。

「史実にはあくまで忠実で、かつ登場人物を魅力的に見せる無理のない脚色を施す」。このノンフィクションとフィクションをバランスよく配合するのはとても難しいことだと思いますが、ここが小説家や脚本家、監督の腕の見せどころでしょう。

この「ノンフィクションとフィクションのバランスよい配合」の好例は、昨年の暮れに完結した漫画家・かわぐちかいじさんの大作「ジパング」です。物語は、日本の海上自衛隊の最新鋭イージス艦「みらい」が太平洋上でタイムスリップし、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の海域に現れるという、かなり「ありえない」設定から始まります。太平洋戦争の真っ只中に置かれた「みらい」とその乗組員たちは、戦争を早期に終結させるために多方面に働きかけ、戦争の流れは史実とは違う方向に動き始めます。

日本人の多くの人が知っているであろう太平洋戦争を史実からずらして描くというのは、かなり冒険的で勇気のいることです(ひとつ間違うと、多方面からの非難の嵐が起こりかねません)。しかしこの「ジパング」での史実からのずれ方には、ほとんど無理が感じられません。これは、かわぐち氏をはじめとする製作スタッフが、当時の世界情勢や日米の状況、双方の戦略・戦術や保有戦力のデータ、そして登場する実在の人物を詳細に把握しているため、描かれ方にリアリティがあるからです。これが、当時からすると「未来兵器」を満載した「みらい」が、米軍に対してこの兵器を駆使して次々に打ち破り、太平洋戦争は日本の大勝に終わったなんてストーリーだったら、あまりにも荒唐無稽で読むに耐えない話になってしまいます。「ジパング」の面白さ・すごさの最大のポイントは、史実にしっかりと根ざした上でストーリーが展開しているゆえの「リアリティ」にあるのです。

始まったばかりの「龍馬伝」。主人公が超有名人で絶大な人気を誇る人物なだけに、注目度も高いでしょう。史実の上にどんな演出を施すのか、どんな龍馬を見せてくれるのか。描かれる「ノンフィクションとフィクションのバランス」に注目したいですね。

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2009年12月12日

歴史上の人物を語る Vol.4 徳川家康

「戦国の三大英傑」シリーズ、最後を飾るのは徳川家康です。天下分け目の関が原の戦いを制し、江戸に幕府を定め、徳川長期政権の基礎を築き上げた家康ですが、「戦国の三大英傑」の中では、どうも一番人気がないようです。

これを象徴するようなこんな歌があります。

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 ただらくらくと 食うは徳川」

徳川家康はずるい人間だ、天下を取る足固めは織田(信長)と羽柴(秀吉)にやらせておいて、最後においしいところを持っていってしまった、というような意味になるでしょう。

確かにこういう面があるのは否定できないと思いますが、それだけで天下は取れるものではありません。徳川家康という人物の業績を、功罪併せて振り返ってみましょう。

< 徳川家康の生涯・概略 >

家康の人生行路は、浮き沈みの繰り返しでした。「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし・・・怒りは敵と思へ」という有名な言葉は家康の人生を象徴しており、彼の言葉だからこそ心に響きます。

幼少の頃は駿河の有力大名・今川氏に人質に出され(しかもその途上でさらわれて一時織田氏の人質になり、ここで少年期の織田信長と出会っています)、元服して松平元康となり、かの桶狭間の戦いでは今川軍の先陣をつとめて功を挙げますが、今川義元が討たれたことで今川氏のもとを離れ、信長と同盟を結びます(清洲同盟)。この同盟は、離合集散を繰り返し、裏切りの嵐だった戦国乱世の中にあって、信長の最期の時(本能寺の変)まで崩れることはありませんでした。このあたりに、家康という人物の律儀さ・義理堅さが見て取れます。

信長の下で実力を発揮し、駿河の国主になるなど有力な大名として名を成し始めた家康でしたが、武田信玄が京を目指して進撃してきた時には、家臣の反対を押し切って武田軍に戦いを挑み、三方ヶ原で大敗します。この時家康は、敗戦後の自分の惨めな姿を絵師に描かせ、その肖像画を自らの戒めとしました。痛恨の敗戦を喫した武田軍に対しては、この後有名な「長篠の戦い」で、信長との連合軍で武田騎馬軍団に鉄砲の威力を見せつけて壊滅的な打撃を与え、見事にリベンジを果たしています。

その後本能寺の変により、事態は一変します。信長の領地であった旧武田領の甲斐・信濃で反乱が起こり、これにつけ入ろうとした小田原北条氏と家康は対峙しますが、結局は和睦し、家康はこれにより駿河・三河・遠江・甲斐・信濃の5国を領有する大大名にのし上がります。

さらに柴田勝家を破って天下人となった秀吉に対しては、その最大の対抗勢力として小牧・長久手の戦いなどで対立しますが、ついには臣従の意を表し、その後の関東移封により、7カ国・250万石を領有する豊臣政権下での最大大名となります。

こうして家康の人生行路を振り返ってみますと、戦うべき時は戦い、従うべき時は従うという臨機応変な身の処し方が目につきます。今川、織田、豊臣と主君は変わりますが、その都度与えられた役割や責任を果たして主君に認められています。

(唯一そうでなかったのが三方ヶ原での戦いでしたが、これは自分の目の前を素通りしようとする武田軍を見て(京を目指す武田軍にとっては、行程的にあえて徳川と戦う必要がありませんでした)、「このまま何もせず行かせては武門の恥辱」と、勝てないことは承知の上で攻めかかったのでした。敗れて命からがら城に逃げ帰ったあと、家康が吐いた言葉:「徳川家康を、臆病者とはもはや世間は見ん。三方ヶ原で今日、わしがこの手に握ったのは、天下という場所で仕事をするには命より大切な信用よ!」(NHK大河ドラマ「国盗り物語」より)家康はこのためにあえて負け戦さに挑んだのでした。「天下」を俯瞰して大きく見渡す目を家康は持っていたのです

織田・豊臣政権下で次第に力をつけていった家康は、当然天下取りの野心も持つようになったと思いますが、特に大大名となった豊臣政権下では、機が熟するのをじっと待っていた感があります(この意味では、嫡子の秀頼が幼少のうちに秀吉が世を去ったのは、家康にとっては幸運だったといえるでしょう)。

秀吉の没後(1598年)、五大老の筆頭格としてすでに大きな存在感を示していた家康は、禁止されていた大名同士の婚儀を取りまとめたり、有力大名を頻繁に訪問したりして多数派工作に乗り出します。家康のこの動きに危機感を抱いた石田三成(五奉行の1人)は、家康陣営に対抗すべく毛利氏などと手を組みます。徳川家康の東軍と石田三成の西軍とで戦われた関が原の戦いは、西軍から寝返りが続出したことで東軍の圧勝に終わり、ここに家康は晴れて天下人となります。

天下人となった家康は、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開きます。その2年後には嫡子秀忠に将軍職を譲りますが、これに怒った豊臣方(淀君・秀頼)との対立が強まり(これは依然として強大な勢力を持っていた豊臣を潰しにかかった家康の策略でした)、大坂冬の陣・夏の陣により豊臣家はついに滅亡、これによって徳川は天下に並ぶ者のない磐石な政権基盤を築き上げたのでした。

< 徳川家康の成し遂げたこと >

@ 徳川長期安定政権の礎を築き上げた

豊臣政権が秀吉の死後わずか2年で瓦解したのを、家康は反面教師としたのでしょう。自らが天下人となったあとは、徳川政権を強固にするためのさまざまな手を打ちます。それは一言で言えば「徳川を強大化し、他を弱体化させる」ことでした。

1. 早めの政権移譲

家康は将軍職をわずか2年しか務めず、早々に秀忠に将軍職を譲ります。しかしなお「大御所」として政治の実権は家康が握り、実質的な「院政」を敷きますが、それでも早めに将軍職を譲っていたことで、家康の死後も政権維持に大きな混乱はなく、その後の家光の3代将軍就任もスムーズに運びました。

2. 武家諸法度・参勤交代の制定:対大名対策

家康は諸大名を3つに区分しました。親藩:徳川家との血縁/譜代大名:関が原以前から徳川方の大名/外様大名:関が原以後から徳川方の大名。そして徳川の天領(直轄地)を定め、その周辺に親藩の大名を固め、その外に譜代大名、さらにその外に外様大名と、昔からの味方で信用できる大名を近くに、徳川に臣従したばかりでまだまだ信用のおけない大名を江戸からより遠くに配置しました。

さらに参勤交代制度を定め、諸大名の藩主に1年ごとに江戸と自領を行き来させ(かの「大名行列」はここから生まれます)、その妻子を実質的な人質として江戸に常住させました。これは江戸から遠い外様大名ほど旅費や滞在費の負担が重く、諸大名の財政を圧迫しました。これは人質と財政負担を諸大名に強いることで、「徳川を助け諸大名をくじく」政策でした。

3. 禁中並公家諸法度の制定:天皇家・公家対策

すでに天皇家や公家の政治的・軍事的脅威はなくなっていましたが、家康はこれらに対して法度を定めることで、「京」を徳川の下に置くことを明文化し、彼らを明確に規制しました。

これらの政策により、日本史上初めて、国の隅々まで行き渡るきわめて完成度の高い中央集権国家ができ上がり(厳密に言えばかなり地方分権色の強い政権ですが、過去の鎌倉・室町幕府や豊臣政権と比べると、統治基盤は強固で、その範囲もほぼ日本全国に及んでいます)、その後250年以上にわたる長期安定政権が築かれたのです(この統治基盤があったために、明治維新も大きな流血がなく進んだといえます)戦国の長い戦乱を収め、人民に永きの平和をもたらしたことが、家康のもっとも大きな功績でしょう。

< 徳川家康が「やってしまった」こと >

@ 国家の近代化の遅れ

徳川幕府は「いかに徳川を強くし、政権を長く維持させるか」だけを考えた政権であったため、それを阻害する危険性のあるものを徹底して排除し、圧迫しました。参勤交代で諸大名に負担をかけ、鎖国によって海外からの進んだ文物の導入を妨げ、キリスト教を禁教として徹底的に迫害しました。

これによっていわゆる「江戸文化:日本独特の文化」は深化しましたが、科学技術は近世のレベルのままでさほど発展せず、全体的な「国力」も大きくは伸張しませんでした。そのため幕末の「黒船来襲」で国中が上へ下への大騒ぎとなり、国家存亡の危機を招きました(もっとも江戸時代には「国家」などという観念はなく、この「外圧」によって初めてそれに目が覚めたという状況でした)。

幕末の志士たちや、明治維新後の「明治国家を造った男たち」の獅子奮迅の活躍がなければ、日本は清(中国)のように諸外国の食い物にされていたでしょう。もしそうなっていたら徳川政権は、「国家を『徳川の御為』だけに支配し、その伸張を阻害し、危機的状況に陥らせた大犯罪人」として後々の世まで語り伝えられ、歴史に悪名を刻んでいたでしょう。


さて、「戦国の三大英傑」をきわめて概略的に見てきましたが、この3人に対する私の個人的な思いを最後に語らせていただきます。

織田信長人物的には一番魅力があります。その思想の斬新さ、型破りな行動力と、バイタリティの塊のような人物ですからね。ただこの人は、距離を置いて眺める分にはすばらしく魅力的ですが、家臣としてその下に入るのはご勘弁ですね(笑)。お付き合いするには気性が激しすぎるし、怖すぎます(笑)。

豊臣秀吉:利口で人情味があり、酒を酌み交わしたら楽しい人でしょうね(ただ話はどうしてもワイ談になってしまいそうですが 笑)。人なつっこさとアイディアの豊富さがこの人の魅力でしょう。ただやっぱり出自が低いためか、やることに品がないのがひっかかります。千利休が忌み嫌ったという「黄金の茶室」はいかにも成金趣味ですし、大変な好色だったのも、いかにも「成り上がり者」という感じです。

徳川家康:3人の中ではもっともキャラが地味で、「ただひたすら耐え忍ぶ人」というイメージが強い人ですが、実は個人的には一番好感を持っています。チャンスをじっくり待つ我慢強さ、状況判断の的確さ、そして質素でヘルシーな生活で長寿。私にとっては3人の中では一番、じっくりお話を聞いてみたいと思える人ですね。

posted by デュークNave at 07:27| Comment(1) | 歴史・ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月03日

歴史上の人物を語る Vol.3 豊臣秀吉

シリーズ第3回は、「戦国の三大英傑」第2弾、豊臣秀吉です。足軽から身を興してついには天下人にまで上りつめ、「成り上がり」「立身出世」の代名詞になっている秀吉。その生き様と業績を、功罪合わせてダイジェストに辿ってみましょう。

< 豊臣秀吉が成し遂げたこと >

@ 天下統一:戦国時代の終焉

やはりこれが最大の功績でしょう。応仁の乱以後の室町幕府の権威の失墜に始まり、各地での守護大名の台頭や戦国大名の勃興、有力な戦国大名同士の覇権争い、そして織田信長の「天下布武」。この間は戦い続ける武士はもとより、戦さによって田畑が荒らされ、町が焼き払われる人民も疲弊していたでしょう。「戦さのない平和な世を築き上げた」これが秀吉のもっとも偉大な業績だと思います。

信長の草履取りという、足軽とさえもいえないような下働きから秀吉(木下藤吉郎)の天下取りへの道が始まったのですが、その後自らの知恵と工夫を凝らして信長の歓心を買い、次第に頭角を現していきます。

たとえば「清洲城の石垣普請を3日で終わらせろ」という無茶な命令を受けた時には、人夫たちをいくつかのグループに分け、それぞれのグループの担当箇所を決めて、「早く仕上げるほどより多くの褒美を与える」と告げて彼らを競わせ、見事に3日で普請を仕上げています。また有名な「墨俣の一夜城」も、蜂須賀小六ら地侍を使い、闇夜に筏で川を下ることで城の材料(丸太)と人夫(兵力)を同時に運び、またたく間に砦を築いてしまいます。

こういう「奇策」を思いつき、それを実行できるのは、秀吉がもともと身分の低い成り上がり者で、人夫たちや地侍たちの立場や気持ちが理解でき、彼らと心を通じ合わせることができたからです。「どうやったら彼らが喜び、どうすれば彼らを動かせるか」常にこれを頭に置いて策を考えた秀吉は、彼らの心を掴むとともに実利を与えることで配下の者を増やし、次々と成果を挙げていきます。そしてこれが、最終的に天下を手にすることにつながるのです。

秀吉の幸運は、織田信長という、古めかしい身分制度やしきたりを嫌い、人間の能力のみを評価する合理主義者を主君に持ったことです。結果を求める信長と、それを十二分に理解し、信長の求めること(時にはそれ以上)を忠実に実現していった秀吉。まさに抜群のコンビネーションでした。

A 検地(太閤検地)

検地とは要するに、「どこにどんな広さの田畑があり、誰が所有し、石高はどれだけあるか」を、日本全国津々浦々まで克明に調べ上げることです。これによって領地の生産高が明確になり、豊臣政権の経済的基盤が確立しました。

土地の所有者(特に農民)にとっては、自分が所有者であることがはっきりと証明されたことで、地侍や地元の土豪に土地を乗っ取られる心配がなくなり、安心して農作業に励むことができるようになりました。

またこの全国調査によって、それまで地元の土豪や有力農民が持っていた「隠れ田畑」が大量に摘発され、これが豊臣政権の支配下に置かれることになったため、豊臣家の財政はさらに潤うことになったのです。

しかしこの検地には「罪」もあります。この検地の際に土地の単位を改め、これまでの1反=360歩を1反=300歩に縮小したのです。これは実質的な年貢の加増(税負担の増大)となったため、これに反発して各地(とくに東北地方)で農民の反乱が相次ぎました。

B 刀狩

秀吉の内政で検地に並んで有名なのが、この刀狩です。農民から武器を取り上げることで「兵農分離」を進め、それぞれの果たすべき役割を徹底させたのです。これには、上記の太閤検地によって年貢の負担が重くなった農民たちの反乱が相次いだことに頭を痛めた秀吉が、それを未然に防ごうという狙いもあったと思われます。

< 豊臣秀吉が「やってしまった」こと >

@ キリスト教の禁止(宣教師の追放)

秀吉は初めはキリスト教に好意的でしたが、布教が進んで入信する人民が増え、キリシタン大名が次々と現れる状況に危機感を持ったのか、手を翻してキリスト教の弾圧を始めます。

どうもこれは、大名や人民がキリスト教を信仰することが、「天下人たる自分を差し置いてキリストを主と崇めている」と秀吉の目に映ったことが原因のようです。何ともばかげた偏見ですが、これは天下人となったあとの秀吉の目がいかに曇っていったかを示す最初の例かもしれません。

A 関白秀次の廃嫡と追放

秀吉は1591年に甥の秀次に関白職を譲り、自らは「太閤」(前の関白の尊称)を称し、豊臣政権の継承を図ります。ところがその2年後に秀頼が生まれたことで、実子たる秀頼を世継ぎにしたいという思いが沸いてきたのか、秀次を疎んじるようになります。そして1595年、乱行を理由に秀次を廃嫡し、高野山に追放、切腹に追い込みます。

「我が子かわいさ」に目がくらみ、豊臣次期政権の地盤を自ら壊してしまったのです。私個人としては、この「秀次の廃嫡・追放」が、秀吉の晩年の愚行の最大のものだと思っています。

B 朝鮮出兵(侵略)

天下統一を果たしてこれ以上領地を増やせなくなった秀吉は、新しい領地を海の向こうに求め、2度の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)を行います。当初は勢いのあった日本軍ですが、朝鮮軍の抵抗と明の援軍によって戦況が膠着し、次第に窮地に追い込まれていきます。そして慶長の役の最中で秀吉が亡くなり(1598年)、出兵の意味がなくなったため、むなしく撤兵します。

これは秀吉の晩年の無謀な野心であり、結果的に九州を中心とした大名たちを疲弊させ、豊臣政権崩壊の一因となりました。これ以上に罪深いことは、単なる個人的な野望で朝鮮の国土を蹂躙し、朝鮮の人民を苦しめたことです。朝鮮では今でもこの「侵略」を「壬辰倭乱」と呼び、祖先が受けた苦しみと秀吉の悪逆を語り伝えています。


こうしてみると秀吉の生涯は、天下統一を果たすまでは知略を尽くした見事な上昇気流を描いていますが、天下人となったあとの行動・事績には眉をひそめるものが目立ちます。トップに立った人間が、その後の自らの振る舞いをコントロールすることがいかに難しいか。「裸の王様」になってしまう例がいかに多いか。歴史の重い教訓ですね。

posted by デュークNave at 05:00| Comment(0) | 歴史・ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする