昨日商品が届いたが(さんざん頭にきているので、敬語は使わないぞ!)、またしても「購読料の支払いが確認できませんでした」の通知が同封されていた。そのくせ同封されていた郵便振替用の用紙には金額が記載されていない。これは今年の1月からずっと続いていることだ。
初めてこの通知を受け取った1月にお客様サービスセンターに電話し、支払いが行われていることを担当者が確認した。ところが翌月になってもまた同じ通知が商品に同封されていた。これに対し、引き落とし口座の通帳のコピーを添付してサービスセンターにFAXし、毎月引き落としが行われていることを証明した。しかしそれにもかかわらず、その後も3月・4月そして今月も同じ通知が送りつけられている。
俺はこの商品の購入を始めて以来、一度たりとも支払いを滞らせたことはない。引き落とし銀行はゆうちょ銀行だが、毎月末近くにきちんと「AP(アシェット)」名義で引き落としがされている。この口座は公共料金など他の支払いの引き落とし口座にもしているので、たかだか3,000円の引き落としがされないことなどありえないのだ!!!
しかもあろうことか、4月28日には「AP(アシェット)」名義で3,598円と5,097円が同時に引き落とされていた。毎月滞りなく支払い続けているのに、ダブルで引き落とされるとはどういうことだ? これは不正引き落としではないか!!!
これからもこのようなことが続くようなら、まず4月28日にダブルで不正引き落としが行われたことへの返還請求と、度重なる不快な通知によって精神的な苦痛を受けたことについての慰謝料請求の民事訴訟を起こすことも検討している。こんな法的手段に訴えるような面倒くさいことはしたくはないが、貴社の管理体制と対応があまりにずさんなので、もはやこういう最終手段に訴えるしかないかと思っている。
俺にこんなよけいな手間をかけさせないように、この事態に対する貴社(担当者)の誠意ある対応、謝罪を切に望む。なるべく早く返信するように!!!
2025年05月17日
2024年12月31日
2024年 回顧 〜弟の件で奔走した前半/資金繰りに苦しみながらも、年の瀬近くに見えた未来への希望〜
私にとって例年以上に波乱万丈だった2024年が今日で終わる。あちこち奔走した前半の6か月、そのしわ寄せで月々のキャッシュフロー回しに頭を悩ませた夏から秋、そして思いもよらぬ邂逅で未来への希望の光が見えた晩秋から初冬。この一年をざっと振り返ってみる。
1月は弟の成年後見人申請を家庭裁判所に提起するための書類作成や必要書類の入手に注力した。ソーシャルワーカーの方がおっしゃった通りのめんどくささで、必要書類の入手にギリギリまで四苦八苦したが、どうにか一通りそろえ、2月に帰郷して現地の家庭裁判所に申請した。幸いにも申請書類の記入漏れや記入ミスはなく、不足書類もなく、すんなり申請は受理された。
この頃心配の種だったのが、リハビリ病院は最長で6か月しかいられないので、それまでに受け入れてくれる特養老人ホームか老人保健施設が見つかるかどうかだった。去年の12月に帰郷した際に、市役所でこれらの施設すべて(全部で15か所)に入所申し込みをしたのだが、ソーシャルワーカーの方によると、ウェイティングリストにすでに100人ほど名を連ねているとのこと。「それじゃ6か月じゃとても空きが出ないんじゃないか」とかなり不安になった。
しかしラッキーにも、4月中旬に某老人保健施設から入所可能の連絡が入り、ホッと胸をなでおろした。そして4月下旬、弟はリハビリ病院を退院し老人保健施設に入所。その立会いのためにまた帰郷したが、とりあえずは一安心だった。
だがこの施設もいつまでもいられるわけではなく、最終的な居場所になる特養老人ホームへの入所を引き続き模索することになる。「ウェイティングリストにまだ何十人もいるんだろうから、入所できるのは相当先になるんだろうな…」と思っていたのだが、6月上旬に某特養老人ホームから現状問い合わせの連絡があり、下旬に入所できることになった。こんなに早く入所できるとは思ってもいなかったので、これは望外の喜びだった。またこの頃に裁判所による成年後見人の選任も終わり、現地での細かな手配は後見人に任せられるようになった。
そして6月下旬、弟は日本海沿いの某温泉地に近い特養老人ホームに入所した。もちろんこの時も立会い、特養老人ホームまでの移動タクシーにも同乗した。おそらくは終の棲家になるであろう(=ここからどこかに移り住むことを迫られない)特養老人ホームへの入所に何とかこぎつけ、ようやく心底安堵することができた。ここからはホームの介護士の方々や成年後見人にほぼバトンタッチになるからだ。
やっと重い肩の荷を下ろせたが、このあとが大変だった。去年の11月から8か月の間6度も帰郷し、そのたびに仕事を数日休み、往復の旅費とホテル代がかさんだ。私の今の仕事は日給月給制だから、休めばストレートに収入減になる。「収入を減らして支出が増える」これを8か月の間に6回も繰り返したのだ。当然我が懐へのダメージは大きく、幾度にもわたって会社に借金し、給料から分割で天引きされることになった。しかも分割払いが完済しないうちに新たに借りねばならなかったから、月々の天引き額は増えるばかりだった。
今思うと、よくあのきついキャッシュフローを回せたなと思うが、とにかく何とかやり繰りできた。そして本来は10月までかかるはずだった天引きを、1か月前倒しで9月までで終えることができた。懐はスッテンテンだったが、どうにかデフォルトせずに、この危機を切り抜けることができたのだ。
この9か月の奔走と資金繰りは、私にとっては何の利益もない、お金と時間と労力を費やすだけの日々だった。だが不思議なことに、これをすごく苦しいとは思わなかったし、誰かや何かに恨みがましい思いを抱くこともなかった。それはひとえに、自分の活動が人のため、まして血を分けた血族のためのものだからだ。他人のために行動することにほのかな心地よさを感じていたし、献身的に動いている自分をほめてやりたい気分にもなった。この「苦しいはずの中での心地よさ・満足感」は、これまでの人生ではほとんど味わうことがなかった気がする。この9か月は、経済的にはとんでもないマイナスだが、精神的には、後々にもいい余韻を残す、かすかだが心温まる日々だった。
そうしているうちに、晩秋のある日に思わぬ邂逅があった。これは現時点では詳しく語ることはできないが、あるすごい人と出会い、その人によってとんでもない世界を知り、今はそれに向かって、カメの歩みではあるが着実に進んでいる、という状況だ。
その「師匠」のおっしゃる通りであれば、未来への不安は一気に払拭され、自分の思い描いてきた「自由で解放された人生」が開けることになる。今はまだ疑心暗鬼が完全には拭えていないが、こうなったら師匠を信じてついて行くしかない。
来年の今頃は自分はどうなっているか。過去10年では期待も想像もできなかった発展が、ひょっとしたら起こっているかもしれない。一方「やっぱり夢幻だったか」と落ち込んでいるかもしれない。どうなるかは、すべて自分の行動次第だ。
1月は弟の成年後見人申請を家庭裁判所に提起するための書類作成や必要書類の入手に注力した。ソーシャルワーカーの方がおっしゃった通りのめんどくささで、必要書類の入手にギリギリまで四苦八苦したが、どうにか一通りそろえ、2月に帰郷して現地の家庭裁判所に申請した。幸いにも申請書類の記入漏れや記入ミスはなく、不足書類もなく、すんなり申請は受理された。
この頃心配の種だったのが、リハビリ病院は最長で6か月しかいられないので、それまでに受け入れてくれる特養老人ホームか老人保健施設が見つかるかどうかだった。去年の12月に帰郷した際に、市役所でこれらの施設すべて(全部で15か所)に入所申し込みをしたのだが、ソーシャルワーカーの方によると、ウェイティングリストにすでに100人ほど名を連ねているとのこと。「それじゃ6か月じゃとても空きが出ないんじゃないか」とかなり不安になった。
しかしラッキーにも、4月中旬に某老人保健施設から入所可能の連絡が入り、ホッと胸をなでおろした。そして4月下旬、弟はリハビリ病院を退院し老人保健施設に入所。その立会いのためにまた帰郷したが、とりあえずは一安心だった。
だがこの施設もいつまでもいられるわけではなく、最終的な居場所になる特養老人ホームへの入所を引き続き模索することになる。「ウェイティングリストにまだ何十人もいるんだろうから、入所できるのは相当先になるんだろうな…」と思っていたのだが、6月上旬に某特養老人ホームから現状問い合わせの連絡があり、下旬に入所できることになった。こんなに早く入所できるとは思ってもいなかったので、これは望外の喜びだった。またこの頃に裁判所による成年後見人の選任も終わり、現地での細かな手配は後見人に任せられるようになった。
そして6月下旬、弟は日本海沿いの某温泉地に近い特養老人ホームに入所した。もちろんこの時も立会い、特養老人ホームまでの移動タクシーにも同乗した。おそらくは終の棲家になるであろう(=ここからどこかに移り住むことを迫られない)特養老人ホームへの入所に何とかこぎつけ、ようやく心底安堵することができた。ここからはホームの介護士の方々や成年後見人にほぼバトンタッチになるからだ。
やっと重い肩の荷を下ろせたが、このあとが大変だった。去年の11月から8か月の間6度も帰郷し、そのたびに仕事を数日休み、往復の旅費とホテル代がかさんだ。私の今の仕事は日給月給制だから、休めばストレートに収入減になる。「収入を減らして支出が増える」これを8か月の間に6回も繰り返したのだ。当然我が懐へのダメージは大きく、幾度にもわたって会社に借金し、給料から分割で天引きされることになった。しかも分割払いが完済しないうちに新たに借りねばならなかったから、月々の天引き額は増えるばかりだった。
今思うと、よくあのきついキャッシュフローを回せたなと思うが、とにかく何とかやり繰りできた。そして本来は10月までかかるはずだった天引きを、1か月前倒しで9月までで終えることができた。懐はスッテンテンだったが、どうにかデフォルトせずに、この危機を切り抜けることができたのだ。
この9か月の奔走と資金繰りは、私にとっては何の利益もない、お金と時間と労力を費やすだけの日々だった。だが不思議なことに、これをすごく苦しいとは思わなかったし、誰かや何かに恨みがましい思いを抱くこともなかった。それはひとえに、自分の活動が人のため、まして血を分けた血族のためのものだからだ。他人のために行動することにほのかな心地よさを感じていたし、献身的に動いている自分をほめてやりたい気分にもなった。この「苦しいはずの中での心地よさ・満足感」は、これまでの人生ではほとんど味わうことがなかった気がする。この9か月は、経済的にはとんでもないマイナスだが、精神的には、後々にもいい余韻を残す、かすかだが心温まる日々だった。
そうしているうちに、晩秋のある日に思わぬ邂逅があった。これは現時点では詳しく語ることはできないが、あるすごい人と出会い、その人によってとんでもない世界を知り、今はそれに向かって、カメの歩みではあるが着実に進んでいる、という状況だ。
その「師匠」のおっしゃる通りであれば、未来への不安は一気に払拭され、自分の思い描いてきた「自由で解放された人生」が開けることになる。今はまだ疑心暗鬼が完全には拭えていないが、こうなったら師匠を信じてついて行くしかない。
来年の今頃は自分はどうなっているか。過去10年では期待も想像もできなかった発展が、ひょっとしたら起こっているかもしれない。一方「やっぱり夢幻だったか」と落ち込んでいるかもしれない。どうなるかは、すべて自分の行動次第だ。
2024年10月13日
毎日新聞・みんなの広場への投稿「多様性」
「多様性」以前友人たちと「映画観賞会」をやっていました。メンバーの一人がおすすめの映画のDVDを持参し、みんなで鑑賞し、観終わったあとで感想を語り合うというものです。その際の暗黙のルールが「他の人の感想を批判しない」、つまり「それぞれが感じたことを尊重し、受け止める」ことでした。そのおかげでとても多様な感想や意見が出て、聞いていてとても面白かったです。「違いを認める」とさまざまな意見や価値観を知ることができ、自分の視野が広がり、人に対する許容量が増えます。「多様性の面白さ」を肌で知った、忘れがたきイベントでした。
毎日新聞・みんなの広場への投稿「新聞へ」
「新聞へ」最近はネット上の公式サイトで記事を読む人が多いようですが、私はいまだに紙媒体で読むことにこだわっています。最大の理由は「一覧性」です。パッと開くと大きな紙面にさまざまな記事を見ることができます。重要な記事は見出しが大きく、冒頭にサマリーが書かれていて、概要を把握できます。かつて新聞を購読せずネットだけで見ていたころ、自分にとって重要なニュースを見逃したことがあり、これを機に購読を再開しました。これからも幅広く多様なニュースに触れるために、紙媒体での購読は欠かせません。
2024年09月15日
日本人初のメジャーリーガー・村上雅則さんとの思わぬ邂逅
まさかこんなことが起ころうとは…! 一瞬ためらったのだが、やはり行動してよかった。「やらずに後悔するよりは、やって後悔する方がいい」とはよく言われることだが、昨日は「やって後悔」どころか、思わぬボーナスを受け取った気分だ。
数日前、私が購読している毎日新聞の社会面に、日本人初のメジャーリーガー・村上雅則氏の偉業をたたえる展示会が横浜市中区の横浜カントリーアンドアスレティッククラブ(YC&AC)で開かれている旨の記事が載っていた。「これはぜひ行こう」と、電車を乗り継いで1時間余、JR根岸線・山手駅から徒歩10分ほどの坂の多い道を、酷暑の中で汗だくになりながらYC&ACにたどり着いた。
展示会の場所はクラブハウスの中のレストラン。昼食は済ませていたので申し訳ないけど何のオーダーもせず、壁の展示物に見入った。村上さんがサンフランシスコ・ジャイアンツに在籍したのは1964年から1965年の2年間だが、当時のさまざまな写真や新聞記事、イラスト、出場選手のオーダー表など、初めて日本人メジャーリーガーを迎えたことがいかに現地にとってエポックメイキングであったかを雄弁に語る、貴重な資料がずらりと並んでいた。
そしてその中で、訪れなければ永遠に知らなかったかもしれないいくつかの事実を知った。村上さんは神奈川の法政二高出身で、かの柴田勲の1年後輩だった。法政二はエース柴田を擁して彼の2年夏・3年春の甲子園で夏春連覇を果たしているが、村上さんは控え投手として2年の時に選抜でリリーフ登板していて、優勝に貢献している。これはまったく知らなかったことだった。
さらに高校卒業後の進路を考えていたころ、南海ホークスの鶴岡一人監督(当時)が村上さんの実家を訪れ、本人がアメリカでプレーしたい希望が強いことを知り、「ウチに入ったらアメリカに行かせてあげるよ」と約束し、これが決め手になって南海入団が決まった。そして約束通り、2年目の春のキャンプ中に、ルーキー2人とともにサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフラズノに野球留学という形で派遣された。そこで村上投手は好投し、晴れてメジャーに昇格し、1964年9月1日、ニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで初登板を果たした。「初の日本人メジャーリーガー・マッシー村上」誕生の瞬間だった。この、村上さんがアメリカでのプレーを強く望んでいたということも全く知らないことだった。
(彼ら3人を「留学生」として派遣した南海とジャイアンツとの契約には、「メジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できる」という条項があったが、南海側は「まさかそんなことにはなるまい」と高をくくっていたようだ。それだけに村上さんのメジャー昇格は南海側にとっても衝撃的だっただろう)
こうしていくつかの思わぬ事実に驚きながら展示物を見回っていると、窓際のテーブルで談笑している一団がいた。全員日本人で、高齢者が多い。その中に、見覚えのある人の顔があった。見ると、サンフランシスコ・ジャイアンツのユニフォームを着ている。「えっ、もしかして村上さん?」思わずまじまじと見つめてしまった。そしてその一団の会話、特にそのユニフォーム姿の人の話を聞いていると、これは本人に間違いないと確信した。まさかご本人がいらっしゃっているとは…!
ただ知り合いでも何でもないので話しかけるわけにもいかず、遠巻きに話を聞くだけだったのだが、私のあとにやってきた2人のうちの1人が知り合いのようで、村上さんと談笑し始めたので、何気にその輪に入り込んで話を聞いていた。そのうちただ聞いてばかりじゃもったいないと思い、展示の写真を見ながらいくつか質問してみた。村上さんはそれに丁寧に答えて下さった。その後テーブル席についてまた談笑し、もう1人の人が持参していた色紙を1枚譲ってくださったので、村上さんの貴重なサインをいただいた:"First Japanese & Asian Player MLB SF Giants Mashi 10" さらにその色紙を持ってのツーショット写真も撮っていただいた。これは最高のお土産になった。
最後に村上さんに聞いてみた。「野茂英雄がメジャーに挑戦した1995年も村上さんはNHKの番組で解説されていましたが、今のMLBは当時より野球のレベルは上がっていますか?」村上さんはこう答えた。「球団が増えて選手の数も増えたせいか、野球をよく知らない選手が増えた気がするね」村上さんの頃や野茂の頃はメジャーリーガーのハードルが高かったが、逆に言えばそれだけハイレベルなプロフェッショナルが揃っていたということか。MLBプレーヤーとしての誇りを感じさせる一言だった。
それにしても、まさかこんなすばらしい時間を過ごせるとは思ってもみなかった。ただただラッキーだったが、これも意を決して行動したからこそ得られた至福の時間だ。これからも、やろうと思ったことはどんどん実行していこう。「やらずに後悔するよりは、やって後悔した方がいい」だ!
数日前、私が購読している毎日新聞の社会面に、日本人初のメジャーリーガー・村上雅則氏の偉業をたたえる展示会が横浜市中区の横浜カントリーアンドアスレティッククラブ(YC&AC)で開かれている旨の記事が載っていた。「これはぜひ行こう」と、電車を乗り継いで1時間余、JR根岸線・山手駅から徒歩10分ほどの坂の多い道を、酷暑の中で汗だくになりながらYC&ACにたどり着いた。
展示会の場所はクラブハウスの中のレストラン。昼食は済ませていたので申し訳ないけど何のオーダーもせず、壁の展示物に見入った。村上さんがサンフランシスコ・ジャイアンツに在籍したのは1964年から1965年の2年間だが、当時のさまざまな写真や新聞記事、イラスト、出場選手のオーダー表など、初めて日本人メジャーリーガーを迎えたことがいかに現地にとってエポックメイキングであったかを雄弁に語る、貴重な資料がずらりと並んでいた。
そしてその中で、訪れなければ永遠に知らなかったかもしれないいくつかの事実を知った。村上さんは神奈川の法政二高出身で、かの柴田勲の1年後輩だった。法政二はエース柴田を擁して彼の2年夏・3年春の甲子園で夏春連覇を果たしているが、村上さんは控え投手として2年の時に選抜でリリーフ登板していて、優勝に貢献している。これはまったく知らなかったことだった。
さらに高校卒業後の進路を考えていたころ、南海ホークスの鶴岡一人監督(当時)が村上さんの実家を訪れ、本人がアメリカでプレーしたい希望が強いことを知り、「ウチに入ったらアメリカに行かせてあげるよ」と約束し、これが決め手になって南海入団が決まった。そして約束通り、2年目の春のキャンプ中に、ルーキー2人とともにサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフラズノに野球留学という形で派遣された。そこで村上投手は好投し、晴れてメジャーに昇格し、1964年9月1日、ニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで初登板を果たした。「初の日本人メジャーリーガー・マッシー村上」誕生の瞬間だった。この、村上さんがアメリカでのプレーを強く望んでいたということも全く知らないことだった。
(彼ら3人を「留学生」として派遣した南海とジャイアンツとの契約には、「メジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できる」という条項があったが、南海側は「まさかそんなことにはなるまい」と高をくくっていたようだ。それだけに村上さんのメジャー昇格は南海側にとっても衝撃的だっただろう)
こうしていくつかの思わぬ事実に驚きながら展示物を見回っていると、窓際のテーブルで談笑している一団がいた。全員日本人で、高齢者が多い。その中に、見覚えのある人の顔があった。見ると、サンフランシスコ・ジャイアンツのユニフォームを着ている。「えっ、もしかして村上さん?」思わずまじまじと見つめてしまった。そしてその一団の会話、特にそのユニフォーム姿の人の話を聞いていると、これは本人に間違いないと確信した。まさかご本人がいらっしゃっているとは…!
ただ知り合いでも何でもないので話しかけるわけにもいかず、遠巻きに話を聞くだけだったのだが、私のあとにやってきた2人のうちの1人が知り合いのようで、村上さんと談笑し始めたので、何気にその輪に入り込んで話を聞いていた。そのうちただ聞いてばかりじゃもったいないと思い、展示の写真を見ながらいくつか質問してみた。村上さんはそれに丁寧に答えて下さった。その後テーブル席についてまた談笑し、もう1人の人が持参していた色紙を1枚譲ってくださったので、村上さんの貴重なサインをいただいた:"First Japanese & Asian Player MLB SF Giants Mashi 10" さらにその色紙を持ってのツーショット写真も撮っていただいた。これは最高のお土産になった。
最後に村上さんに聞いてみた。「野茂英雄がメジャーに挑戦した1995年も村上さんはNHKの番組で解説されていましたが、今のMLBは当時より野球のレベルは上がっていますか?」村上さんはこう答えた。「球団が増えて選手の数も増えたせいか、野球をよく知らない選手が増えた気がするね」村上さんの頃や野茂の頃はメジャーリーガーのハードルが高かったが、逆に言えばそれだけハイレベルなプロフェッショナルが揃っていたということか。MLBプレーヤーとしての誇りを感じさせる一言だった。
それにしても、まさかこんなすばらしい時間を過ごせるとは思ってもみなかった。ただただラッキーだったが、これも意を決して行動したからこそ得られた至福の時間だ。これからも、やろうと思ったことはどんどん実行していこう。「やらずに後悔するよりは、やって後悔した方がいい」だ!