2013年01月11日

戦国時代最強の「覇王」は誰だ?

NHKで3日に放送された「覇王伝説〜最強の戦国武将は誰だ?」は、歴史ファンとしては興味津々の番組だった。名だたる戦国武将の中から視聴者アンケートと専門家の意見をもとに8名をノミネートし、7つのステージを定め、それぞれについてランキングして採点し、その総合得点で戦国最強の「覇王」を決めようというものだ。

ノミネートされたのは、北条早雲・毛利元就・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗の8人。いずれも一時代を築き、北条早雲以外の7人は、NHKの大河ドラマでも主人公になったことがある(特に信長・秀吉・家康の「ビッグ3」は、何度登場したか、何人の役者が演じたか数えきれない)、日本が世界に誇ると言っていい名将だ。

この「戦国の英傑」8人を、7つのステージでランキングし、評点していく。このステージの設定も面白いが、それぞれのステージで示されるデータ・数字やさまざまなエピソードもあまり知られていなかったものが多く、これも興味津々だった。



【 STAGE T 】 兵力

どれだけの兵力を動員できたかでランキングする。ここはやはり天下人となった家康(450,000人)・秀吉(400,000人)が強く、その一歩手前まで行った信長(200,000人)が続く。このビッグ3がケタ違いに多く、4位以下(毛利元就35,000人、武田信玄33,000人、伊達政宗28,000人、上杉謙信25,000人、北条早雲6,000人)を大きく引き離している(早雲の時代はまだ戦国の草創期で、さほどの大軍勢を率いた戦いはなかった)。

このビッグ3の大兵力の秘密は、専門武士団の養成にあった。戦国時代中期までは兵は農民兵が主だったが、彼らは農作業の繁忙期には徴用しにくい。そこで比較的動きやすい農家の二男・三男らを金で雇い、訓練を施し、軍装を整えて、専門の武士軍団を造り上げたのだ。これは常時徴用できること(=兵力の増強)と、戦さのプロとして鍛え上げることができること(=兵のレベルアップ)、この質量両面のメリットがあった。


【 STAGE U 】 勝率

生涯の戦さのトータルで何勝何敗だったかを示す。
どうやってこれを数えたのかと思うが、かなり詳細な数字が出てきた。ランキング順で言うと、

  1位:武田信玄/94.3%(50勝3敗)
  2位:毛利元就/90.2%(37勝4敗)
  3位:織田信長/89.4%(118勝14敗)
  4位:上杉謙信/87.8%(43勝6敗)
  5位:伊達政宗/87.5%(14勝2敗)
  6位:豊臣秀吉/87.1%(121勝18敗)
  7位:徳川家康/84.8%(67勝12敗)
  8位:北条早雲/81.3%(13勝3敗)


信玄勝率トップの秘密は、一つには「風林火山」のキャッチフレーズにもある通りの、騎馬軍団を率いての機を見るに敏なる疾風怒濤の戦いぶり。そしてもう一つは、「負けない戦さ」にあった。引き分けが合計22回。あまりに有名な謙信との川中島の戦いは5度にわたって行われたが、結局決着はつかなかった。知略を駆使しても勝つまでには至らないと思った時は、潔く兵を引いて引き分けに持ち込む。この堅実で冷静な、兵を大事にする信玄の戦いが人心をつかみ、武田を最強軍団にのし上げていったのだ。


【 STAGE V 】 経済力


鉄砲(火縄銃)1丁が約70万円、足軽1人の1か月当たりの人件費が20万円。総勢16万人が戦った「天下分け目」関ヶ原の戦いにかかったコストは、一説には500億円!と言われている。武将の力の源となる経済力を、3人の専門家(小和田哲男・静岡大学名誉教授/本郷和人・東京大学史料編纂所教授/加来耕三・作家)が検証する。

ポイントは「石高」「商業・交易」「ビジネスセンス」の3点。領地の大きさや豊かさだけではない、トータルな経済センスが問われる。

8位:武田信玄/甲斐・信濃という山あいの豊かとはいえない地が領地だったことに加え、かつては豊かだった甲斐の金山を無計画に掘り進めたために、信玄の時代にはついに鉱脈が枯れ始めた。これでは経済センスがいいとは言いがたい。

7位:北条早雲/領地は伊豆・相模の2国のみであり、石高の絶対量が他の7人と比べると少ない。しかしこれは早雲の時代のことであり、その後北条氏は領地拡張を続け、ついには小田原城を本拠に関東一円を収めるに至った。そのさきがけとなった早雲はやはり偉大だったと言わねばならない。

6位:徳川家康天下人が意外な低評価。秀吉の時代までは銭本位制だったものを、石高(米)本位制にした。これが経済発展の流れに逆行する保守的なやり方とみなされた。

5位:伊達政宗年貢を納めたあとの余った米を農民から買い上げ(買米制)、それを大消費地である江戸で売りさばいて巨利を得た。領地の農民は現金収入を得、領主たる伊達家も大いに潤った。これは見事な”win-win”政策である。

4位:毛利元就日本有数の銀山であった石見銀山を激しい争奪戦の末に手中にした手腕には高い評価。しかし山陽道という交通の要衝を手にしながら、さほど活性化できなかった点でマイナス評価され、ベスト3入りを逃した。

3位:上杉謙信/もともと豊かな穀倉地帯であった越後。これに加え越後は、当時の日本人の主要な衣服であった麻の原材料であるアオソが多く自生する土地でもあった。これを謙信は専売制とし、栽培と加工を奨励した。こうして麻布の生産を盛んにし、これを京都などの大都市で売った。肌触りのいい越後の麻は貴族から庶民にまで大評判になり、今の価格で年間40億円にも及ぶ巨大な利益をもたらした。

2位:織田信長まず注目されたのは道路行政。それまでは敵からの攻撃を防ぐために幅2mほどで曲がりくねっていた道を、幅4m・長さ30qにも渡る街道に造り直した。また領内に当時としては画期的な楽市・楽座(場所代や売上税を免除)を設置し、多くの商人を引き寄せた。こうして物や人の行き来を容易にし、マーケットが広がったことで、商業が飛躍的に発展した。ただこれでは敵の攻撃も受けやすくなるが、信長はこの道路に通行税を設け、その税収入で武士を雇い、街道沿いに配置して警護に当たらせた。

1位:豊臣秀吉天下統一ののち、全国の穀倉地帯や金山を太閤蔵入地(直轄地)にし、本拠地である大坂と船で結んで交易ルートを作り、現地での生産品を売値の高い大坂で売りさばいて巨利を得た。流通ネットワークの構築と大マーケットを利用した経済力の強化という、一石二鳥の妙手である。


【 STAGE W 】 健康力

戦国時代随一の名医であった曲真瀬道三の著書(戦国武将の診察記録をまとめたもの)をもとに、彼らの健康度をチェックする。


織田信長(享年49歳)激高しやすい性格から、かなりの高血圧であったと推定される。本能寺の変がなくてもあまり長生きはできなかったのではないかと思われ、ここでは低評価。

上杉謙信(享年49歳)/幼少のころ寺で修行をし、粗食が身についていた謙信だが、大の酒好きだった。うまい越後の酒に酔いしれ、命を縮めたようだ。

武田信玄(享年53歳)・豊臣秀吉(享年62歳)ともによく行ったのが温泉。特に秀吉は有馬(兵庫県)の温泉が好きで、蒸し風呂によく入っていたらしい。

毛利元就(享年75歳)若いころから体をよく鍛えていた。また冬には雪合戦を盛んに行い、体を動かしにくい季節にこうして筋力を鍛えた。

伊達政宗(享年70歳)政宗には医学の心得があり、担当医に薬の処方を細かく指示するほどだった。

徳川家康(享年75歳)なんと自ら薬を作っていた。方々から生薬を取り寄せ、自分で配合して薬を作っていたのだ。

北条早雲(享年88歳)当時としては常識はずれの長寿。その秘訣は「早寝早起き」、好んで食べた「梅干」、そして「良薬」だった。早雲は民の信望を集め、民を暮らしやすくするために、食料と健康を守るための良薬が必要と考え、将軍家や天皇家も愛用した中国渡来の胃腸薬「ういらう」を領内で製造販売させた(もちろん自分も服用した)。終生民を慈しんだ早雲らしいエピソードである。

このランキングは高齢者、医療関係者、サラリーマンら50人の1人2票の投票で行われた。結果は1位家康、2位早雲。これは納得だが、それ以下は必ずしも長寿=健康力とはなっていない(たとえば酒で早死にした謙信が3位で、高齢になっても運動を心がけて75歳まで生きた元就が最下位になっており、これはおかしい)。ということで、3位以下の結果には個人的には納得していないので、ここには書かない。


【 STAGE X 】 外交力

戦わずして勝利を収める外交力。同盟、婚姻、内応者工作など、交渉力や知略が求められる。戦国時代の「知恵者」を、再び専門家3人がランキングする。


8位は上杉謙信。義を重んじ、策略を嫌った謙信は、外交上手とはいえない。7位は伊達政宗、6位は武田信玄。5位には、他国のお家騒動に乗じて領地を奪った手腕が評価された北条早雲が入った。4位は豊臣秀吉。晩年の朝鮮出兵の失敗が響き、高い評価は得られなかった。

3位:織田信長/流浪をかこっていた足利義昭を将軍に仕立て上げ、その権威を利用して上洛を果たす。また石山本願寺との戦いに苦慮すると、将軍義昭を裏で動かして正親町天皇に停戦の命令を下させる。伝統的な権威さえも道具として利用してしまう信長。常識にとらわれない「戦国の革命児」の面目躍如の外交手腕である。

2位:毛利元就/安芸の小領主に過ぎなかった元就だが、長男以外の子たちを吉川、小早川などのライバル領主の養子に送り込み、彼らが成人して家督を継ぐことで実質的な毛利の領地となった。こうして安芸一国の領主となったあと、最大のライバルであった尼子氏に対しては、「内部に裏切り者がいる」という偽手紙で内紛を起こさせ、それに乗じて尼子氏を滅ぼした。元就は武力とともに、知略外交の妙によって中国地方を統一したのである。

1位:徳川家康離合集散と裏切りが茶飯事だった戦国時代にあって、21歳の時に信長と結んだ清州同盟を最後まで破らなかった(信長によって正室の築山殿と嫡男の信康を死に追いやることを強いられたが、それでも信長を裏切らなかった)。この誠実な姿勢が、信長のみならず天下の信用を得た。関ヶ原の戦いの前、石田三成が家康に味方した武将の妻子を人質に取った時、家康は「妻子を守るために三成方についてもかまわない」と言ったが、家康の誠実さを信頼していた武将たちは、徳川方として戦うことを誓った。愚直なまでの真面目外交が人心をつかみ、家康に天下をもたらしたのである。


【 STAGE Y 】 ファッション力

武将たちの甲冑から、彼らのファッションセンスと威厳、自己表現力を測る。


ここでも街中の50人による1人2票の投票で決めた。対象となったのは、日本滞在中の外国人、銀座の和服姿の女性たちと、ファッション専門学校の生徒たちだ。

1位はやはりというか、伊達政宗。「伊達者」の語源となったと言われる政宗、漆黒に統一した鎧兜に、キラリと光る大きな三日月。現代でも通用する抜群のファッションセンスである。

2位は織田信長。対象になったのは桶狭間の戦いの時の甲冑。このころはまだ身につけていた甲冑も正統派だが、それでも高評価を得た。しかし信長のファッションセンスがより際立ったのはこのあとで、西洋風の甲冑やマントを身にまとったりした。評価するならこのころを見るべきだと思うが、たぶんこのころの甲冑が現存していないのだろう。

3位以下はポイントが大きく離れているのでノーコメントとする。確かに戦国武将のファッションというと、信長と政宗の2人が真っ先に思い浮かぶ。この時代では他の追随を許さず、だろう。


【 STAGE Z 】 リーダー力

人の上に立つ者に求められるものの最たるものが、このリーダー力といえるだろう。ステージの最後にこれを持ってきたのは納得だ。名だたる戦国武将8人のリーダー力を検証する。


北条早雲「慈」の人。領地に課する年貢を5割から4割に減らし、領内で疫病が発生すると京から薬を取り寄せて領民に配った。若き日に応仁の乱による民の苦しみを目の当たりにし、慈悲の心で領地を治めることの大切さを知ったのである。

上杉謙信「義」の人。助けを求められれば他国へも出陣し、勇猛な戦いで窮地を救った。室町幕府から授かった関東管領の任務を忠実に全うし、関東に変事があればすぐに駆けつけて混乱を収めた。宿敵・武田信玄に塩を送ったというあまりにも有名なエピソードでも示されているように、頑なに義を貫いた人であった。

伊達政宗「夢」の人。1611年、仙台は大地震に襲われ、大津波に飲まれて5,000人以上が犠牲になった。政宗は復興のために新田開発を進め、領民もこれに応えて土地はよみがえった。また遠く太平洋を渡り、メキシコからスペインへと船を送って海外との交易を目指した。大災害という逆境のさ中に政宗は壮大な夢を描き、民を導いたのである。

武田信玄「和」の人。武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように、信玄は独断専行をせず、何事も家臣団との合議で決した。家臣の意見をよく聞き、人の和によって領国統治を進めたのである。

豊臣秀吉「才」の人。主君・織田信長が討たれた本能寺の変の時、秀吉は備中・高松城攻めのさ中にあった。知らせを聞いた秀吉は敵と巧みに和睦し、すぐさま取って返した。有名な「中国大返し」である。200kmを10日で戻るという強行軍。兵たちは疲れ切っていたが、途中の姫路城で秀吉は、今の価値で50億円に及ぶ「恩賞の先払い」をして兵たちを奮い立たせ、山崎の合戦で明智光秀を破って主君の仇討ちを果たした。巧みな方策によって味方を次々に増やし、「人たらし」と呼ばれた秀吉の、面目躍如の戦いだった。

毛利元就「智」の人。STAGEXの「外交力」で見たような、知略を駆使して戦わずして領地を広げる巧妙さ。そして戦さでも、厳島の戦いに見られるような、敵の大軍を狭い島での戦いにおびき寄せ、激しい風雨の夜に奇襲をかけ、4,000の兵で20,000の敵軍を破った。敵の裏をかき、意表を突く巧みな戦術で、元就は中国地方の覇者にのし上がったのだ。

徳川家康「柔」の人。武田信玄との三方が原の戦いで家康は大敗北を喫するが、敗戦直後の自分のみじめな姿を絵師に描かせ(「しかめ像」として現存している)、生涯の戒めとした。その後の長篠の戦いなどを経て武田氏は滅亡するが、家康は有能な武田軍団を召し抱え、関ヶ原の戦いでも重用した(「関ヶ原合戦屏風」に、赤の甲冑の武田軍団が描かれている)。かつての敵でも、有能で忠誠心が厚ければ重く用いる。この家康の柔軟な人使いが人望を集め、天下取りへとつながっていったのである。

織田信長「志」の人。戦国時代、いや日本の合戦史上最大の逆転劇と言われる桶狭間の戦い。2,000の織田軍が25,000の今川軍に勝利できたのは、合戦前の信長の一言にあった。「分捕りはせず、首は捨てておけ」。当時、兵にとっては恩賞を受ける証である敵の首をたくさん取ることが何よりの目的だった。しかし信長はこの戦いで、「狙うは今川義元の首ただ一つ!」と戦いのビジョンを明確にし、兵たちの意思を一点に集中させた。織田軍は全軍で義元の本陣5,000を突き、他の兵には目もくれず義元を目指し、見事にその首を挙げた。その後は「天下布武」のスローガンの下に家臣を率い、武力による天下制覇を目指して邁進した。信長の口癖「死のふは一定」(人は必ず死ぬ)。「生きているうちに何ができるか、残せるか」を常に胸に抱き、明確なビジョンを定め、強靭な意志でそれを実現していったのである。

このリーダー力は、スタジオのゲストと歴史ファン50人の一人2票の投票で決めた。結果は、

1位:信長 2位:家康・政宗 4位:秀吉 5位:早雲・謙信 7位:元就 8位:信玄

やはり強烈なリーダーシップで家臣団を率いた信長がトップ。「柔」の家康と「夢」の政宗が同率で2位。「慈」の早雲が5位に健闘しているのが目につく。



そして総合ポイントランキングは、

  1位:織田信長 4,400点   2位:徳川家康 4,100点
  3位:豊臣秀吉 3,600点   4位:毛利元就 3,300点
  5位:伊達政宗 3,200点   6位:武田信玄 2,600点
  7位:上杉謙信 2,500点   8位:北条早雲 2,100点


これはあくまでもごく一部の人たちの投票で決まったことであり、これで決定!というものではもちろんない。しかし一定の傾向は見えていると思う。


早雲が最下位になってしまったのは、彼の時代はまだ戦国の初期であり、戦いのスケールも小さく、経済基盤も大きくなかったことが響いている。しかし常に領民への慈悲の心を持っていた早雲は、個人的には大好きで尊敬に値する武将であり、「こんな数字で評価できる人じゃない」と思っている。

5位の政宗は、東北というこれも比較的戦いや経済基盤のスケールが小さいところを本拠地にしていたこと、そして彼が頭角を現したのは秀吉の小田原攻めのころで、すでに天下の趨勢が決まりつつあった時代であり、覇を競うまでには至らなかったことが響いた(のちに政宗は、「自分があと20年早く生まれていたら天下を取っていた」と家臣に述懐したという)。しかしファッションや海外交易、買米制など、彼のやることにはセンスの良さを感じさせる。一言で言えば「カッコいい!」のだ。自分のルーツが東北にあることもあり、大河ドラマ「独眼竜政宗」での渡辺謙さんのエネルギッシュな名演に心酔したことも相まって、政宗は私にとっては、戦国最大最高のヒーローなのである。

トップ3はやはりこの3人になった。まあ順当な結果だろう。この「戦国のビッグ3」については、改めてコメントすることはない。


それにしても面白い番組だった。いずれも名だたる武将だが、こうしていろいろな角度からチェックすると、彼らを総合的に見ることができ、それぞれの特徴や長所がよくわかる。NHKはこれまでも多くの優れた歴史番組を我々視聴者に提供してくれたが、この番組は戦国時代に関する歴史番組の一つの集大成と言っていいだろう。

posted by デュークNave at 06:15| Comment(1) | 歴史・ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
元祖鬼吉川こと吉川経基を推す、山名宗全、畠山義就の二大猛将を打ち破り、圧倒的不利な状態だった東軍を逆転勝利に導いた名将。
Posted by 元祖鬼吉川推し at 2017年01月19日 04:20
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